私には先祖達が人質(墓質)に取られているように見えます!

私には死んでからも尚、月照寺墓所の維持管理費用を稼ぐ為に自ら拝観料を稼がなければならない、そして、縁も所縁もない人達に稼がされている先祖達の姿が墓所の中に(自分の心の中に)見えます。365日、観光客に自分達の墓所の中までズカズカと土足で入り込まれても、何も言えないままに。私は、先祖達は死後も墓所を確実に維持管理する為にそれ相応の不動産を残したと考えていましたが、昭和60年61年と平成9年の2度、境外地合計5271.74㎡(1597坪)が公示価格の約半額で売却され、残された境外地は駐車場等を残し僅かになってしまいました。
もしこれからも、先祖達が墓所を維持管理する為に自ら拝観料を稼ぎ続けなければならないのなら、松江に帰り、先祖達の遺志を継ぎ、墓所を守り、維持管理する事が私の残りの人生の役目だと考えています。先祖達からの「命の襷」「血の襷」を受け継ぐ事だと考えています。
同時に月照寺が、松江市民の皆様にとって、自由に気兼ねなく出入りでき、利用できる、全てに開かれた「松江市民の皆様の為に存在する寺院」になる第一歩だとも確信しています。

私は発心なき「浄土宗僧侶」による「月照寺住職の世襲」に反対します!

「僧侶」とは「仏弟子」として「仏の道」を歩む事を発心した人です。それに対して「住職」とは寺院の管理運営者という「職業」にすぎません。何故、多くの寺院の住職が自分の子供に、或いは親族に寺院を継がせるという「寺院の世襲」を望むのでしょう?
何故なら、寺院の「世俗的活動」の全権限が住職の充て職である「代表役員」に集中しているからです。住職=代表役員には、寺院の「意思決定機関」及び「執行機関」である「責任役員」の人事選定権が与えられています。つまり代表役員に与えられている選定権によって、全責任役員を住職の意のままに身内で固める事が出来るのです。3人の責任役員の過半数である2人、例えば、住職とその子供、住職とその親族が組めば、当該寺院の管理運営の全てが住職の意のままになるのです。
だから多くの寺院の住職は自分の子供に或いは親族に継がせるという「寺院の世襲」を望むのです。
「仏弟子としての僧侶」を継がせる世襲ではなく、寺院の管理運営者としての「住職としてだけの世襲」を望むのです。住職としてだけの世襲は「発心無き、慈悲心無き、住職一族」による寺院の「私物化」「専有化」「家庭化」にも繋がる可能性を含んでいます。
そして発心無き、慈悲心無き、住職一族は、「他者としての死者=先祖」の存在を思い浮かべる事が出来ない一族なのです。日本の仏教は大乗仏教と言われています。大乗仏教は自分の為だけでなく、他者の為に善い行いをする事(利他行)を強調した教えだと聞いています。利他の心を表現するにはその対象としての「他者の存在」が思い浮かばなければならないのです。
死者=先祖は他者である以上、僧侶であるならば「子孫」からの依頼による「先祖追善供養」は喜んで引き受けなければならないでしよう。僧侶にとって「先祖追善供養」を引き受ける事は「善い行い=利他行=功徳」を積む事になるからです。僧侶は「先祖供養という利他行を」与えてくれた「その子孫」に感謝すべきです。子孫も「先祖追善供養という利他行」を先祖に「功徳廻向」出来た事をその僧侶に感謝しなければならないでしよう。
一方、発心無き、慈悲心無き、住職一族は、利他行を向ける(廻向)存在としての、「他者としての死者=先祖」を思い浮かべる事が出来ない一族なので、先祖追善供養において「読経屋」に成り下がっていても自分を僧侶であると思い込んでいる人達なのです。
これが、発心無き「浄土宗僧侶」による「月照寺住職の世襲」に反対する、私の理由です。

松平家略血統図

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