続・不昧公の子孫から松江市民の皆様へ!実態報告その6

令和5年5月

全ての原因は、浄土宗僧侶としての[資質]の有無が問題なのです。
(詳細は、実態報告その1からその4までに記載済み!)

「資質」が無いから月照寺前住職と現住職は、平成8年、初代直政公の墓所の中に文化庁に無届けで、しかも浄土宗知恩院宗務庁へも無申請で、観光客目当ての遊歩道と観覧場所らしき物を「羞恥心」も無く造れたのです。この建造物は翌平成9年3月6日、島根県教育庁文化財課から1名、松江市教育委員会文化財課から2名の計3名による立ち入り調査の結果、撤去させられました。

撤去させられた遊歩道と観覧場所らしき物

月照寺住職の「浄土宗僧侶としての資質の有無」

小泉八雲の著書「心」には、随想「祖先崇拝の思想」が収められています。その中には、「日本人の死者に対する感情は、どこまでも感謝と尊敬の愛情である。おそらくそれは、日本人の感情の中でも、一ばん深く強いものであるらしく、国民生活を指導し、国民性を形成しているのも、この感情であるらしい。」と、書かれています。昭和の哲学者である福田恆存も、日本人の宗教心の基は「祖先崇拝」であると言っています。日本の仏教は「葬式仏教」と言われるように、死者の葬式と祖先への感謝と尊敬の愛情を基にした、祖先供養としての儀式を行う仏教として存在しているのです。

月照寺の「寺院規則」には、「浄土宗の教義を広め、儀式行事を行い、信者を強化育成することを目的とする」と、記載されています。浄土宗知恩院の「寺院規則」にも、同様な記載を見つける事が出来ます。日本仏教が「葬式仏教」である以上、月照寺と浄土宗の「寺院規則」に記載されている「信者を強化育成する」の意味は、「死者のために祖先供養としての儀式を行う事で強化育成する」の意味でもあるのです。浄土宗は日本特有の「葬式仏教」を旗印として布教活動を行っているのです。旗印としての布教活動を行うには、「死者である祖先が眠る墓」と「墓の中の祖先への感謝と尊敬の愛情を抱く子孫」の存在が必要です。「葬式仏教」では「墓」と「子孫」の存在がなければ布教活動は出来ません。しかし現実には、実態報告その1、その2、その3において報告したように、月照寺墓所に眠る九人の先祖の子孫の一人である私は、現在までの月照寺住職と月照寺責任役員を兼務してきた東林寺出身僧侶によって、僧侶が持つ慣習としての宗教的権威を利用され(笠に着られ)、月照寺墓所から徹底的に排除され続けています。この事実で明らかなように、今も月照寺責任役員である東林寺出身僧侶(月照寺住職と東林寺住職)は、世俗的既得権益確保の目的の為には、浄土宗僧侶としての布教活動を捨て去り、世俗においての私利私欲、自己保全、自己弁明のみを僧侶の生存目的と考えている、「羞恥心無き浄土宗僧侶」と言えるのではありませんか!月照寺にはもはや、浄土宗の布教活動としての旗印である「葬式仏教」は存在していません。

私達の目の前に存在している月照寺は、東林寺出身僧侶によって、社会的ルールの「宗教法人法」と「寺院規則」の違法行為、逸脱行為が行われた結果、祖先への感謝と尊敬の愛情を基にした祖先供養としての儀式を行う場所ではなくなってしまったのです。

その代表的な実例は、六代藩主の墓所を利用した観光客獲得目当ての「ゴーストツアー」ではありませんか。小泉八雲の著書「心」に書かれている日本人の宗教心の基である「祖先崇拝」の心はどこに行ってしまったのでしよう。六代藩主の墓所を、未だに現世に恨みを残して死んだと言い伝えられているゴースト(亡霊=幽霊)が棲みついている場所に仕立て上げてまで、観光客からの入場料収入を得る事を目的にしているのが、月照寺の現在の姿です。日本には多くの「観光寺院」が存在していますが、私が知る限り「納骨されている墓所」を利用して観光客からの入場料収入を得る事を目的にしている寺院は、松江市の月照寺だけです。私には月照寺が「伏魔殿」のように見えます。
見せ掛けだけは立派ですが、観光客だけに門を開き、子孫と松平家関係者に対しては門を閉ざした、非宗教的な場所として存在している「伏魔殿」のように見えます。

「先祖供養」を希望する子孫である私を、警察の力を利用して月照寺墓所から徹底的に排除し、観光客を迎える目的の為だけに、新たに墓所の中にまでアジサイを植え、庫裏を新築し、寺院としての見せ掛けだけを立派に繕った場所にしか見えません。そしてその見せ掛けだけの寺院の「僧侶」である住職は、毎朝、毎夕、当然、「僧侶」として行うべき読経等の「勤行」を行っていない。各藩主の「祥月命日法要」の儀式も行っていない。
繰り返しますが、月照寺の「寺院規則」には、「浄土宗の教義を広め、儀式行事を行い、信者を強化育成することを目的とする」と,記載されています。日本仏教が、祖先崇拝、祖霊信仰を基にした「葬式仏教」であるからには、月照寺住職の僧侶としての努めは、「寺院規則」の目的を実践することです。私は月照寺の現在の姿から、月照寺住職には「寺院規則」の目的を実践する意志も「仏弟子」としての志しも無いと判断しています。意志も志しも無いという事は、「仏の教え」=「浄土三部経」を理解、信頼していないことです。だから「仏の教え」を、実践しないし、実践できないのです。

故に、月照寺住職のような僧侶が、「浄土宗僧侶としての資質のない」僧侶なのです。

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