合気道開祖・植芝盛平ゆかりの地・大東流合気柔術中興の祖・武田惣角ゆかりの地・探訪記
(1)開祖と白滝村の概況
平成20年9月23日(火)、開祖ゆかりの白滝村を探訪しました。平成17年10月1日、北海道紋別郡白滝村は市町村合併により生田原町、遠軽町、丸瀬布町が合併して北海道遠軽町白滝字白滝となりました。開祖の頃は北海道北見国紋別郡湧別村白滝原野といいました。合気道開祖・植芝盛平(以下開祖と称す)は明治45年(1912年・29歳)和歌山紀州団体団長として54戸、80余名の同志を引き連れて白滝原野に到着、入植しました。白滝ホロカ沢付近より上白滝に至る中央道路沿い(現国道333号線)に入植し、入植は白滝まで広範囲にわたりました。その頃はありませんでしたが、国道333号線に並行して走るJR石北線は白滝〜遠軽は昭和4年、白滝〜旭川は昭和7年、開祖が白滝を離れてから開祖の運動の成果が実り、ようやく開通しました。遠軽まで60キロ、旭川まで90キロの比較的便利な位置に白滝原野はありました。この網走−旭川−札幌を結ぶ中央道路(現国道333号線)は明治25年、網走因徒外役所(明治23年につくられたもので、後の網走監獄の前身)の囚人により開削、開通しました。
厳冬期は零下20度を下回る厳しい環境に耐え、開墾を進め、鉄道建設の請願をしたり、村を整備し、林業・畜産など殖産に務め、二股地区に商店街をつくったり、小学校をつくる(大正2年)など多くの業績を残し、はては白滝出身初の上湧別村村会議員に最高位で選出されるなど開祖の人生に大きな影響をもたらしました。同時にこの地で武田惣角に教えを受けたことは合気道誕生に大きな契機となりました。そのため合気道開祖ゆかりの地として知られています。武田惣角もまた開祖のすすめで白滝へ転居し、終生ここに居を定めたことから武田惣角ゆかりの地となりました。
平成13年5月には植芝盛平ゆかりの地として白滝村(今は遠軽町)と開祖生誕の地・和歌山県田辺市と終焉の地・茨城県岩間市(現笠間市)の間で、平成20年2月には新たに綾部市を加え4市町の間で友好都市提携が結ばれました。
この地は国道333号線沿いにあり、旭川市、北見市、紋別市いずれの方向からでも車で1時間半の所にあります。旭川方面からJR石北線に乗ると奥白滝(廃止)、上白滝、白滝、旧白滝、下白滝と白滝と名前がつく駅が連続します。昭和末期には周辺人口の激減によりすべて無人化されています。これらの駅がある白滝村は市町村合併で遠軽町に合併となりましたが、大正8年4月開祖の運動が功を奏して、白滝村は遠軽分村となりました。その後、この白滝村は遠軽町から分村してつくられた経緯があります。同村は合併前(平成12年現在)は人口は1152人(平成17年現在1405人)の道内2番目に小さな村でした。面積は343平方キロメ−トルで、山林88.1パ−セント、畑作4.9パ−セントを占めます。白滝村は林業が盛んなところでしたが、林業が衰退し、今では白滝中心にある白滝営林署の大きな敷地(約3000坪)がその栄華の痕跡を残しています。旅行中に原生林といわれるような巨木がみれることを期待していましたが、釧路、阿寒、知床、網走、北見、遠軽、旭川の道中の道路沿いでは全く見ることができませんでした。せいぜい直径10〜20センチ、高さ10メ−トル程度の灌木があるばかりでした。9月といえばタマネギ、ジャガイモ、トウモロコシの収穫が終わったところで何も植わっていない畑が延々と続いていました。北海道は明治8年からの屯田兵による開拓で開発が進み、伐採が進み道路も整備されているということでしょうか。この白滝村(合併前の名称とその地域)は大正6年の大火災の影響もあり、原生林などどこにも見あたりませんでした。四方を山に囲まれた白滝村は標高365メ−トルの高原のため近隣町村よりも昼夜の温度差が大きく、ジャガイモなど旨みが良い作物が収穫できます。酪農と畑作を基幹産業としていますが、残念なことに多くの人が高齢化により離農し、後継者もいないので村が過疎化し、約300ヘクタ−ルもの土地が遊休地なっています。最近ではスキ−場など観光に力を入れているようです。その他注目すべきことは、東洋一の埋蔵量(推定6億トン)を誇る黒曜石が出土し、白滝遺跡群として国の史跡に指定されています。
@上白滝神社A植芝盛平の碑B武田惣角の碑C白滝郷土館D白滝柔剣道場E白滝総合支所Fバス停G二股地区
合気道マップより引用
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