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養神館合気道
                   
白滝村の開祖 
 (1)開祖と白滝村の概況
 (2)白滝郷土館
 (3)白滝柔剣道場

 (4)武田惣角の碑
 (5)植芝盛平の碑 
 (6)上白滝神社
 (7)あとがき

合気道開祖・植芝盛平ゆかりの地・武田惣角ゆかりの地探訪記
(4)武田惣角の碑
  武田惣角(1860〜1943年・享年83歳)の碑がありました。道々白滝原野停車場線(至支湧別)と国道333号線が交差する三角地帯に「大東流合気武道名人武田惣角師ゆかりの地」の記念碑が建立されおり、惣角が亡くなるまでこの碑のところに惣角の家があったということです。
  開祖は大正4年(1915年・32歳)2月、武田惣角と遠軽町で会い、遠軽の久田旅館で1ヶ月稽古します。さらに1ヶ月後、白滝に招きます。開祖は惣角に私設の道場を提供し使用人を含め、村内有志10数名と共に研磨修行しました。大正5年、惣角は白滝の植芝宅に滞在し、教授を行いました。開祖は大正5年(1916年)に惣角から秘伝目録を授与されます。
  惣角は大正8年5月2日、家族共々下湧別から白滝二股市街に転居、以来この地を本拠地として道内はもとより本州各地に指導普及に努め、多くの著名な武術家(吉田幸太郎・堀川泰宗・堀川幸道・佐川幸義・松田敏美など)を育てました。この惣角の碑の存在する二股地区の惣角の住まいは開祖から譲り受けた土地の一部に家を建てたものとされますが、おそらくは開祖が白滝を去る前までのところでは開祖所有の家と、敷地であったと考えられます。惣角は開祖が8年後、白滝を去るにあたり、開祖の白滝の土地や住居を無償で譲り受けました。惣角の謝礼録に北海道紋別郡遠軽村字白滝二股市街木造平屋を大正8年12月21日、先生(惣角)に身上致候也と記録が残っています。
  大正3年、堀川幸道は湧別(下湧別)で惣角に入門、惣角が出向いて月10日、3年間教えたようです。惣角は白滝に居を構えるまでは下湧別に堀川泰宗の世話で家族共々住んでいました。白滝に居を構えるようになってからもその子息堀川幸道に武術を教えていたのです。惣角がなくなったのは昭和18年(1943年)4月25日、青森市浪打町伊東方で病で倒れ86歳で不帰の客となりました。
  2008年の現在、惣角の亡くなった頃に生まれた人は65歳、物心のついた5歳位の人ならば現在70歳となっており子供時代に惣角を見ていたり、うわさを聞いていた人は今も現存しています。知名度が高いのは開祖ですが、白滝に8年しかいなかった開祖と比べると28年間、白滝を本拠地にしていたため、土地の人の印象は惣角の方が強い一面もあります。しかも惣角の碑は集落の一角の道路沿いの三角地帯の目立つところにあります。
 この碑のあったところに道場があったという土地の人もいます。一方では惣角は道場を持たなかったといわれます。大正6年の火災で一度は焼失してしまったのは事実でしょうが、その後この道場は再建されたものと思われます。その開祖の建てた私設の道場はどこに消えたのでしょうか。あくまでも筆者の想像ですが、もしかしたら惣角の碑のところに開祖の私設の道場があり、私設の道場が惣角の家になったので、建物は同じものであっても道場としての役割は消えたのかもしれません。また惣角はその後、開祖の謝礼として受け取った土地を売却して家を建て替えた可能性もあります。土地の人にとっては立て替えても道場であったという伝説は残ります。惣角にとって武術は秘伝なので公開を建前とする道場や広い稽古場所は必要としなかったのです。自分所有の道場を持たず、武術の組織もつくらず、今の合気道のように集団指導方式をとらず、ただ秘伝の武術として個別に教授するというのが惣角の指導方式であったのです。

            碑の拡大写真