合気道開祖・植芝盛平ゆかりの地・大東流合気柔・武田惣角ゆかりの地・探索記
(5)植芝盛平の碑
惣角の碑のところで道が二つに分かれていたため反対の道(道々道白滝原野停車場線・道々558号線)を7キロ間違えて走りました。開祖の碑がこんなに遠いはずがないと人に尋ねようと思いましたが、気づいたところで途中人家は1軒もなく、とある神社(上支湧別神社)まで行き、そこから少し引き返した所にあった民家を訪ねました。最初、開祖の碑を主婦に訪ねましたが、間違えて惣角の碑の場所を教えるので開祖の碑を探している事をしつこく訪ねると御主人が出てきて正しいところを教えてくれました。道を間違えていることが分かり、また惣角の碑まで7キロほど引き返しました。惣角の碑から2キロ先の遠くないところと教えてもらいましたが、3キロ近くなろうというのに走っても見あたらず冷たい風が吹きつけ、次第に心細くなりました。いかにも寒そうに手ぬぐいでほおかむりをし、犬を連れて長靴姿で歩いていた老婆に開祖ゆかりの碑の場所を車外に降りて聞きましたがわかりません。あきらめてふと100メ−トル先を見たところJR石北線を挟んだ右手に、大きな鳥居があるのを発見し、ここまで来た甲斐があったとほっとしました。神社はその奥100メトル先にありました。よく除草がされ整備されていました。近くまで行くとその手前、左手の斜めはす向かいの農家の前に、目当ての開祖の碑もありました。植芝盛平ゆかりの地と記念碑に記銘されていました。建立場所は白滝村字上23番地(所有者近藤敏雄)です。この碑は開祖ががかって白滝にいたことを記念して昭和58年11月に建てられたもので、この場所に開祖の本籍地がありました。父・与六は本籍を、明治45年から大正6年まで上白滝に移しております。何年間か住んだのは事実のようですが、あまりの寒さのためこらえきれず、郷里に引き返し、籍も元に戻したということであります。開祖が父親のみ一人暮らしをさせたということは考えにくく、開祖もここに同居していたのではないでしょうか。白滝中心部から3キロ離れていても開祖は馬を縦横に駆使し、活動したため、不便を感じることはなかったと思われます。ちなみに開祖は明治45年夏、倉橋伝三郎が愛別に所用の折、道産子馬1頭の購入を依頼しています。
大正6年5月23日、大火災が発生し、白滝全域が焼失し、開祖のこの家も焼失しました。もともとここに家があったという記録も残っていないようですが、この場所に再度、家を建てたという記録もありません。この火災を契機に二股市外に住むようになった可能性はあります。開祖は二股市街にも住むところ又は住んでいたところがいくつかあったのは間違いないようです。使用人の借家もあったかもしれません。そのため開祖の居住地がどこであったのか特定できない面があります。『白滝ところ処』の著者太田実氏は同誌第21号に惣角の住んでいた所として図面上で3カ所あげています。@として西区川向こう道路付近、Gとして二股商店街に近い中央団地・白滝村役場付近Bとして大東流合気道名人武田惣角ゆかり地記念碑付近をあげています。
惣角が大正8年5月2日、家族共々下湧別(現湧別市から白滝二股市街に転居したとき入ったところはどこであったのでしょうか。Gでしょうか。それとも最初からBの場所であったでしょうか。
惣角が単身赴任(妻子は湧別に住んでいた)で住んだところは@かGが考えられますが、ここは開祖の家があったところとも考えられます。惣角がいる間は惣角を住まわせると同時に一緒に住み、身の回りの世話をしていたと考えられます。また道場代わりにも使っていたかもしれません。
年代は分かりませんが惣角の白滝における足跡から考えても、開祖は住まいをいろいろ所有していた可能性があります。その他の例では太田実氏は同誌28号で次のような話しを紹介しています。「白滝村史」の開基先駆者座談会で、岩城近蔵(大正3年単入地)は、『団長の植芝は、私の三男が分家(現東区・所有者岩城寛)したところに入っていた。』といっています。さらに同誌で「植芝盛平の住宅が、白滝特別教授場の仮校舎に充てられたことから見て、二股市街(現東区集落地)にあったことは間違いない。この他どこに住んでいたかは確認するまでには至らなかった。」としています。ただ、ここ二股市街の家が家族共々住んでいた家であったのか、そこまではふれてはいません。他にも太田実氏は開祖の土地が現西区にあり、惣角の妻スエや惣角に土地の所有権を移転したことを土地台帳から確認していますが、建物については、どこにあったのか確認できなかったとしています。
家は同時に何軒も持つことは可能ですので、私が思うところでは開祖の白滝における本拠地として確認できる家はあくまでもゆかりの地の碑のあったところではないでしょうか。開祖が明治45年に白滝に来て最初につくった家は父与六の本籍から察するに上白滝のゆかりの地の碑のあった所ではないかと思われます。ですが、最初に紀州団体で開墾を始めた所は通称東区といわれる二股地区からで、次第に白滝の中央区、南区、西区、さらに上白滝と進んでいきます。開発が白滝の二股地区から始まると仮住まいをつくりながら移動し、後半になるに従い、上白滝の家の重要性が増してきたと思われますが、大正6年、上白滝の家があったと仮定しても全焼してしまったことは間違いありません。これを機会に父与六の本籍を移転したかもしれません。家のないところに本籍を設定しても意味がないと考えたのでしょう。
ただ太田実氏はこの番地に開祖が住んでいたことは前掲誌の中で確証はないとしています。しかし(住んでいた)証として役場の土地台帳からみると、父与六爺の本籍も下湧別村字白滝原野235番地(現在の字上・植芝盛平ゆかりの地碑建立地白滝23番地)に定め明治45年から大正6年まで在籍しているということをあげています。他人の土地に家を建てるものはいないし、家のないところを本籍地とするものはいないと思います。また国道333号線を挟んだゆかりの地碑の斜めはす向かいの上白滝神社の掲示板に寄付世話係として氏名が墨守されていることをあげています。住んでいたもしくは住んでいるところであればこそ先頭になって寄付世話係を務めたと思います。これだけの証拠があれば、ここを住まいとしたことは間違いがないように考えても良いのではないでしょうか。
碑の後ろ側・碑文
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