貫心流の研究

注釈 心傳開教論

作者 文化十年頃 阿波の住人 畑六郎義知の著述
   筆者は頼山陽であり、跂文は門人頼三県とあるので、文章は或
いは頼山陽の作ではないかと謂われている。(原文を省く)

 貫心流には剣術、居合、柔術、薙刀、杖術、懐剣等の諸武芸がある。
 貫心流の元祖は、安芸の国高田郡甲立にある五龍山城主であった宍戸家の司箭家俊である。宍戸家は、宍戸朝家を始祖とし、代々上記の五龍山城主であった。その六代目、宍戸元家(悪四郎、左衛門尉)には三人の子があり、長男は元源、二男は弾正忠隆兼、三男は又四郎家俊である。貫心流は、この家俊が開いたものである。
宍戸家俊は、下総守で、初め由利刑部正俊から源義経伝来の剣法を学び後、厳島に参籠して神託を受け、天正元年鞍馬山、愛宕山に入山して専心武術を修行した。司箭と称したのはこの頃で、愛宕太郎坊にいたが、ある日自分の像を柳の木に刻んで、そのまま行方をくらました。人々は「天狗になった」のだといった。
貫心流の武技の中心は、もともと薙刀であったが、だんだんに他の技が付加され、冒頭に記したように剣術、居合、柔術、薙刀、杖術、懐剣等にも及んだのである。
宍戸家は安芸の名門で、宍戸隆家は毛利元就とは姻戚関係にあり、元亀二年山中幸盛が伯州赤石で吉川元治に捕らわれ、殺されようとした時、宍戸隆家、口羽道良の両人は幸盛の人傑であるのを惜しんで助命を嘆願したが、幸盛は身の危険を感じ厠中より脱走した話は有名である或(頼衷董書)。

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