明治19年、20年の警視庁武術大会を機に、講道館は”日の出の勢い”で、その勢力を伸ばしてきた。そして在京の柔術各派は、新興柔道の軍門に下ったかの観があったが、地方に蟠居(ばんきょ)する柔道家が、在京の柔術家に右へ習えして、すべて講道館の風下へ立ったわけでは決してなかった。「よしっ、おれが出て行って、講道館柔道をとっちめてやろう」という気概のあるサムライが少なからずいたのである。
その一人が”不遷流”の田辺又右衛門である。又右衛門は不遷流四世の家元である。不遷流の始祖”物外”大和尚は、托鉢(たくはつ)用のお椀二つをもって、真剣の新撰組隊長近藤勇を押さえて「参った」をいわせた”拳骨和尚”で知られる。
拳骨和尚のことはあとで書くが31歳のとき、広島県尾道市栗原町203の曹洞宗済法寺の住職となったが、慶応3年(1867年)11月25日、旅先の大阪市の『福島屋』という旅館で客死(73歳)。中寺町の禅林寺に葬られ”物外不遷禅師の墓”という墓がある。門人は三千人といわれた。
(以下秘伝を含むに付き略す) |