四 7歳で45キロの土俵かついだ拳骨和尚


 ”拳骨和尚”こと、物外和尚(または不遷和尚)は、寛政6年甲寅(1796年)3月3日、伊豫(愛媛県)松山藩士三木兵太信茂の一子として生まれた。(一説には松山藩主松平安芸守の子という)武田信玄九代の嫡孫(ちゃくそん)ともいわれるが、事情あって6歳のとき、山越の竜泰寺の祖燈和尚に預けられて養育された。生来の大力はそのころから現れて、7歳のとき12貫(45キロ)の土俵を差し上げて衆人を驚かせた。
 12歳のとき出家して、広島市中島町に現存する曹洞宗伝福寺の観光和尚の弟子となり、15歳から広島国泰寺僧堂に入って勉学、19歳のとき大阪に出て修行したが、それから30歳まで天下を周遊して、仏典、文武の道を修行、31歳となって伝福寺に帰山、観光和尚の推薦によって、尾道の済法寺の住職となる。安政2年(1855年)姫路藩酒井候の祈願所となり二百石を賜わる。翌年、粟田口青蓮院の宮、久邇宮家の祈願所となり、安政5年、孝明天皇の勅諚によって、天皇の勅願所となり紫衣を賜わる。以来、死にいたるまで、”勅物外”と自書することを許された。慶応3年11月25日、遷化(死亡)。73歳。大阪中寺町禅林寺に葬られ、墓碑は武田相模守信貫の筆に成り「不遷禅師の墓」と記されていた。(以上、不遷流五代、故田辺輝夫八段提供)
 拳骨和尚の来歴は以上の通りだが、和尚の50年忌は大正5年11月16日、大阪で営まれ、百年忌は昭和41年11月23日、尾道市の済法寺で20ヶ院の稚児60余人、僧衆、関係者約300人が集まって盛大に行われた。
 物外は12歳から19歳まで満8カ年、芸州(広島)藩体術師範高橋猪兵衛尉満政について修行し、免許皆伝となった。この流派は「難波一甫流」(なんばいっぽりゅう)である。流祖・難波一甫斉久永は、天正(1573年~90年)年間の人で、備前岡山の浮多家の家臣(家元文献)といい、他の説では長州の人で元和(1615年~23年)年代の人といい、この差が50~60年あるが、そのどちらとも定めにくい。難波一甫斉久永は、竹内流三代・竹内加賀介久吉の門弟といわれ、この流派は山口、広島(真貫流となる)に多く伝わり、一甫斉流、一甫流、一歩流、難波一方流、難波一甫真得流などと呼ばれている。
 物外和尚は、難波一甫流のほかに、楊心流、渋川流、起倒流、竹内流、柳生流、関口流などを習い、それらの長所をとって”不遷流”と名づけたが、そのほかにも、各流の秘法を一手ずつとって、つぎの十本の形がある。
                       (以下秘伝を含むに付き略す)

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