二 七流合体の肥後流体術

 品川は内務大臣であったが、実際に大干渉を行った主人公は次官の白根専一だったという。選挙の結果は、かえって政府が不利となり、議席は野党側が多く、品川は責任をとって退官したが、白根次官はいすわった。これを怒った農商務大臣陸奥宗光は、品川の辞職より三日遅れて野に下り、第三議会において松方内閣は政府案を否決され、25年8月8日、ついに総辞職に追い込まれた。次いで伊藤博文内閣が出現したが、これが世にいうところの元勲内閣である。
 −横道にそれたが、もう一度熊本へ戻ろう。熊本はもともと柔術の盛んなところで”肥後のやわら三流”といわれ、細川藩は扱心流(きゅうしんりゅう・汲心流ともいう)の江口家、竹内三統流の矢野家、四天流の星野家と三つの師範家をそれぞれ二〜三百石で抱えて、剣の二天流(宮本武蔵の伝系)と共に柔術に力を入れてきた。
 扱心流の江口弥三(武徳会範士)の門下からは、牛島辰熊八段の兄義一、竹内三統流の矢野広次門下からは佐村正明、嘉一郎十段父子、村上邦夫、四天流の星野九門の門下からは福島清三郎、丸山三造、三石昇八という逸材が出ている。
 扱心流は北面の士・速水長門守円心(円心流組討ち)から江州の犬上長勝に伝わり、その子、扱心斉永友で扱心流が完成したといわれ、犬上軍兵衛永保が宝暦三年(1753年)久留米の有馬藩に仕え、九州一円に広まった。明治時代の江口弥三範士は、西南の役で西郷方について戦い、右肩に銃創を負い、右肩が下がっていたという。
 四天流は肥前唐津(または諫早)生まれの成田清兵衛高重が、戸田流(剣、居合、組討)を学び、明暦二年(1656年)熊本の細川綱利候に仕え、二天一流の寺尾求馬信行に敗れて入門、信行から四天流と名づけられた。伝系は 成田高重−星野実貞−関群馬−星野竜介−星野実直−星野九門、星野竜太となっている。
 「肥後の熊本やわらどころ」といわれ、この”やわら三流”のほかに四流派があって、明治35年4月には、次の肥後体術七流を合して「肥後流体術」とした。
 楊心流          山東清武
 竹内三統流       矢野広次
 扱心流          江口弥三
 天下無双流捕手術  高岡一太郎
 四天流組討       星野九門
 四天流小具足術    除村熊雄
 塩田流小具足術    野々口常人
 ここに現れる”楊心流”は、警視庁武術大会に出場した楊心流(流祖三浦楊心)戸塚派のそれと異なり、秋山四郎兵衛義時を流祖とする楊心流で、熊本藩、高松藩等に伝わったもので、塩田流は播州の塩田松斉清勝を祖とし、宮本武蔵の養父・無仁斉の当理流の分派で、清勝が丹後の細川候に仕え、細川候が小倉−熊本と移封するに従い、熊本藩に伝わった。

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