一 小泉八雲と嘉納治五郎との関係


 嘉納治五郎が、第1回の外遊から帰国したのは明治24年1月6日であるが、4月には学習院教授、宮内省御用掛を免ぜられ、文部省参事官を命ぜられた。8月7日には東京第一高等中学校長木下広次の媒酌で竹添須磨子と結婚、新居を浦賀の松崎山に構えた。が、それもつかの間、結婚6日目には、文部省から熊本の第五高等中学校長兼文部省参事官の辞令が出て、9月には新妻を姉の嫁ぎ先、麻布市兵衛町の柳邸に預けて単身赴任した。32歳の時のことである。
 単身赴任というが、実際には、嘉納師範が自ら滋賀県で見出した大男の肝付宗次を連れて行った。熊本へ着くと、さっそく五高の生徒控え室を改造して道場をつくり、”瑞邦館”と名づけ、肝付を助手に生徒たちに柔道を教えた。それから3ヶ月後には講道館から有馬純臣を呼び寄せているが、助手が肝付一人では間に合わなかったからであろう。
 嘉納は五高の校長となると、松江中学の教師だったラフカジオ・ハーン(小泉八雲)を引き抜いて五高の英語、英文学の教師とした。ハーンはここで初めて柔道をみた。そして嘉納校長に対して彼一流の質問を浴びせ、その談話などを基に、彼らしい推理を加えて『柔道』と題する論文を書き、日本精神、日本の政治外交、日本の生活などをすべて嘉納の説く”精力の最善活用”の”柔術”をもって理解しようとした。これは”out of the East”という題で、1895年にボストンで出版され、その書中に”柔術”という項目に書かれている。
 ハーンはアイルランド人の軍医を父に、ギリシャ駐在中に土地の婦人との間に生まれ、イギリスとフランスで教育をうけたが、イギリス在学中に片目を失明。20歳で渡米、新聞記者をしながら文筆活動、翻訳、創作でしだいに文名をあげ、1884年、西インド諸島等で生活したのち、日本へ来たのは明治23年(1890年)の39歳のときである。
 ハーンは、松江中学の教師となり、土地の島根県士族、小泉節子と結婚、日本の風土、人情を愛し、古伝説や怪談などは特別の興味をもって研究した。
 あるとき、熊本城にある第六師団の祝い事があり、県内の地名の士が招かれた。武官は制服、文官はフロックコートというのに、ただ一人紋付袴の男がいた。それがハーンであった。彼はいつも和服で、キセルでタバコを吸い、食べ物も、日本人と少も変わらず、つとめて日本人になりきろうとした。
 嘉納校長が26年1月、校長を免ぜられて東京に帰ると、ハーンも五高をやめた。そして神戸で英文記者となり、そのかたわら日本の印象記を『知らぬ日本の面影』『心』『仏土の落穂』などにまとめ、明治28年(1895年)には、ついに日本に帰化して”小泉八雲”となった。翌年、東京大学文学部講師、明治36年、早稲田大学講師となり、英文学を講義した。著書には『霊の日本』『東の国から』『日本のお伽噺』などがある。柔道がまだ海外に普及されない時代に、小泉八雲が真っ先に英文でこれを紹介したことは、柔道界にとっても特筆すべきことであった。
 嘉納師範が五高の校長として熊本にいるうち、天下を騒がせた大事件が起きた。それは松方内閣の選挙大干渉である。山形内閣のあとを受けて成立した松方内閣は、組閣そうそう「大津事件」(津田三蔵巡査がロシア皇太子襲撃)で内閣改造、その3ヶ月後には濃尾地方(岐阜、愛知)の大震災(死者約一万人)が起こり、24年11月21日に開かれた第2回議会では、その救済費について与党が介入した不正があると、野党側が政府を攻撃、政府予算案をつぶしにかけ、樺山海相の失言問題から混乱に陥り、ついに12月25日に解散した。
 この選挙(第2回)では、品川内相が大干渉を行い、高知、佐賀、福岡、岡山、千葉などが最も激しく、死者25、不祥390人という流血の惨事となった。このとき品川弥二郎内相は、自ら改進党の本拠地・佐賀に乗り込んで演説会を行うことになったが、これを機会に、民党の壮士たちは品川内相を暗殺しようとする不穏な計画があると伝えられた。
 品川弥二郎と嘉納治五郎との関係は、明治19年、品川弥二郎がドイツ駐在全権公使として赴任する際、麹町富士見町にあった苦談楼(品川邸)を嘉納が借りうけて嘉納塾とし、邸内に40畳の道場を新築して講道館を移して以来のものである。なお、22年に品川が帰朝して、苦談楼をあけ渡すときには、品川と陸軍次官桂太郎の斡旋で本郷真砂町の陸軍省の建物を借り受けて講道館を移す(4月)など、嘉納としては品川にかずかずの恩義があった。
 その品川が内務大臣として、日本憲法史上最大の汚点を残す選挙大干渉を行ったとしても、その是非はともかく、佐賀において品川襲撃の噂が高まっては、佐賀とは目と鼻の位置にある熊本にいる嘉納にとっては、とうてい座視することは出来なかったのだろう。ひそかに書生風に姿を変えて、全市に殺気がみなぎっている佐賀へ潜入し、品川の宿舎にたどりついて、品川の身辺の警戒にあたった。
 ここで運よく襲撃事件は起こらなかったからよいようなものの、もしここで襲撃事件が生じていたら、五高校長の加納治五郎もただでは済まなかったに違いない。この品川の”選挙大干渉”には、なお後日譚がある。

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