拳骨和尚と出雲(上)

平成4年4月〜6月上旬 宍道町蒐古館で開催された特別展「幕末の快僧・拳骨和尚」に併せて紹介された新聞記事(山陰中央新報)が、平成4年4月4日に掲載されております。
67歳の秋2ヶ月滞在 文人と遊び武勇伝も残す

 無双の怪力で拳骨(げんこつ)和尚の異名をとり、晩年は勤皇倒幕に奔走した幕末の快僧、武田物外(もつがい)が出雲各地を遊歴したことはあまり知られていない。宍道町蒐古館でこの地方に残るゆかりの品々を展示するにあたり、出雲における物外の足跡を調べてみた。
 物外は寛政六年(一七九四)、伊予松山藩士の家に生まれた。幼児より体力抜群で怪童と呼ばれたが、わんぱくが過ぎて寺の小僧に出された。学問にも励んだが、一方でひそかに町道場に通い武芸の修練を積んだ。剣は真影流、くさりがまは平生流、弓は日置流、馬術は大久保流、中でも柔術は難波一甫流の免許皆伝から後に不遷流の祖となったのだから大変な坊さんである。
 広島、大阪、江戸、山口など諸国を遍歴の後、三十四歳で尾道の曹洞宗・済法(さいほう)寺住職となる。この間、行く先々で力比べを挑んできた武士や相撲取りを片っ端から打ち負かし「拳骨和尚」の勇名は天下に鳴り響いた。新撰組の隊長近藤勇が繰り出したやりのけら首を両手に持った木椀(わん)で挟んでびくともしなかったなどという武勇伝は枚挙にいとまがない。
 その物外が門弟建次郎を連れ、中国山脈を越えて出雲へやってきたのは文久元年(一八六一)六十七歳の秋であった。松江市寺町の宗泉寺に旧知の笑巌和尚を訪ねた物外は、冬の半ばまで二ヶ月余りを出雲に滞在する。この間、宍道町の木幡山荘、大社町の藤間家などにも逗留(とうりゅう)し、千家国造家もしばしば訪れている。
 このころの物外は、すでに曹洞宗の大本山永平寺から大和尚の位を受け、宮中参内の儀式も済ませた高僧であり、書画、俳句、篆刻(てんこく)などに長じた文人でもあった。
 宗泉寺本堂には、大きな松の板に力強く「善通物」と墨書した額がかかっている。「達磨図」の大幅や「ひょうたんを先へ寝かして月見かな」という洒脱(しゃだつ)な句画なども残っている。
 同寺滞在中のある日、伯耆から来た木下左内という二メートル余の大男と境内で相撲を取り、その巨漢を頭上高々と持ち上げて投げ飛ばしたというから、晩年に及んでも気力、体力は少しも衰えていなかったようだ。この事件はたちまち城下の評判になり、武芸の指南を受けにくる松江藩士が相次いだという。
 宗泉寺を出た物外は、湖岸を西へ、宍道の木幡山荘を訪れる。当時の山荘は、いま吹月堂がある場所に「独楽窩(どくらくか)」と呼ぶ草ぶきの隠居所があり、私から四代前の木幡久右衛門梅屋は遠近の文人墨客をここに招いて雅遊を共にした。その中には物外と親しい書家の貫名梅屋もいたから、物外の宍道来遊にはあるいは梅屋の紹介があったのかもしれない。
 花守と人はいふらん庵ひとり
 世を背に独り楽しむ蓮の花
 滝の音とめて鳴きけりほととぎす
 などの句を残して、やがて尾道に帰った物外あてに、梅屋は当時珍しかったオランダ砂糖と薩摩たばこを贈り届け、添え状には、物外から譲られた硯(すずり)、ひょうたんなど片時も座右を離さず老師をしのんでいる、と思慕の情を書き連ねている。

(八雲本陣記念財団理事長・山陰中央新報社副社長 木幡修介)

次へ

トップへ
トップへ
戻る
戻る