拳骨和尚と出雲(下)

面目伝えるげんこつ跡 将来見込み陣幕取り立て

 物外は宍道から大社に向かう。藤間家の当主源左衛門月清は木幡梅屋の甥(おい)であり、大社行きは梅屋の紹介によるものと思われる。月清の日記には「十一月十七日木幡より参られ、十二月六日ご出立」とあるから二十日間近い逗留(とうりゅう)で、この間、中臣六村ら同地の文人たちと交遊を持った。国造千家尊孫(たかひこ)とは碁の好敵手だったという。
 先年、物外の調査に来県された二松学舎大学教授寺山旦中氏によると、尾道の済法寺には千家国造から贈られた「曙(あけぼの)」という銘の茶碗(ちゃわん)が残っている。
 また、物外は慶応二年、孝明天皇の勅命で宮中文武館の額を揮毫(きごう)したが、その際控えの間で禁裏御用の写真師が撮影した写真がある。ご下賜の紫衣に威儀を正した物外は頭に帽子をかむっているが、これまた千家国造が贈ったものというから、よほど親しい間柄だったようだ。
 藤間家に残る品では「守一」と墨書したケヤキの板額が物外の面目を伝えていて面白い。よく見ると「一」の字の下方に一円玉くらいのへこみが二カ所。「物外和尚が(サイン代わりに)げんこつを打ち込んだ跡」という「極め書」があり、物外の怪力がウソでも誇張でもないことを物語っている。
 ところで、もう一つ物外と出雲を結ぶ話として、東出雲町出身の横綱陣幕久五郎(一八二九−一九0三年)との出会いがある。私の家に、岡山県矢掛町の郷土史家、故中山英三郎氏から亡父木幡吹月にあてた手紙があり、その中に「物外は陣幕九五郎を取り立てた人である」という一行を見つけた。
 陣幕の伝記を見ると「十四、五歳(一説には十九歳とも)で備後相撲に入り二十歳で大阪へ、さらに嘉永三年江戸に出て江戸相撲に入る」とある。当時、職業力士の集団は江戸、大坂のほか各地方にもあり、備後相撲の本拠地は尾道だった。
 物外は陣幕より三十五歳年長だからそのころ五十歳前後か。尾道と京阪の間をしばしば往復した物外が、将来有望とみた陣幕青年を大阪相撲に推薦しただろうことは容易に想像がつく。陣幕顕彰を熱心に進めておられる東出雲町の有志で考証を試みられてはどうだろうか。
 さて、今回の展示は「達磨図」の大幅をはじめ、墨跡(ぼくせき)、句画、短冊や遺愛の硯(すずり)、香合、ひょうたんなど三十余点。中では天衣無縫、何ものにもとらわれない戯画と、骨太でおおらか、ときに滑稽(こっけい)味を漂わせる俳句が、物外和尚の人となりを偲(しの)ばせて味わい深い。
 古池や何万育つ蛙の子
 天地の力こぶなり梅の花
 何処に富士もっと仰向け雲の上
 秋の暮障子明けても我ひとり

 物外は、出雲遊歴の旅二ヶ月余りで尾道に帰った。そして六年後の慶応三年十一月、密勅を奉じて京都から長州に向かう途中、大阪の宿で発病し「太平を待ちたてまつる寒さかな」の一句を残して亡くなった。七十四歳であった。

(八雲本陣記念財団理事長・山陰中央新報社副社長 木幡修介)


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