第十話 新撰組の今弁慶

 新撰組の隊中に、「今弁慶」という渾名(あだな)の男がいた。体躯も大きく、膂力(りょりょく)も絶倫で、いつも十五貫ばかりの鉄棒を引いて歩いていた。
 ある日、物外は誓願寺の寺中にある歯医者のところで入歯を調製していたが、ちょうどその玄関へ今弁慶がやって来て、
 「歯茎が腫れていて痛い。瀉血(しゃけつ)してもらいたい」
 と言って医室に通り、傲慢な態度で物外の膝の前を跨いで、その上座に座った。
 歯医者が今弁慶にむかい、
 「旦那の大力は世人のみな畏るるところでございますが、武芸となると師匠がなくてはならぬこと。旦那のお師匠は誰方(どなた)ですか」
 と尋ねた。今弁慶、答えていう。
 「わが師は備後尾道済法寺の物外和尚でござる。世にきこえた大力で柔術に長じ、鎖鎌の名人である。」
 となりに座っている物外さんが、おどろいた。見たこともない男だからである。
 「ほんとうかなあ、お前さん」
 「坊主、拙者を疑うのか」
 「バカもん」
 一喝一声。立ち上がるや否や今弁慶の横っつらを張り倒す。
 「済法寺の物外は愚僧であるぞっ。まだ一面識もないのに、おれの弟子などとは世人をいつわるにも程がある。この暴漢め」
 今弁慶はびっくり仰天し、ややしばらくして身の塵を払い、平身低頭して罪を謝した。
 「すでに三顧の礼あらば許さぬわけには参るまい。その方のたずさえている鉄の棒を見せて見ろ」
 彼がその鉄棒を師の前に差出すと、物外これを取って三つにへし折って投げすてた。
 「その方の力量は、わずかにこんな鉄棒を引くくらいのことだ。こんなこけおどしで世人を虚喝(きょかつ)するとは、けしからんことだ」
 今弁慶の本名は不明だが、後に銃殺されたということである。これは『物外和尚逸伝』に出ている話だが、同書、別の条に、物外の贋者(にせもの)の話を書いている。思うに同一の話が二様に語られたのであろう。
 −文久三年三月(この年月の誤れること前に記す)、物外が上京して寺町入りの某宅に遊んでいたところ、たまたま「備後の物外」と名乗る男が、十四、五名の供をつれて通りかかった。京洛見回りの役目と書いているのは、新撰組関係の者なのか。先頭の者に金棒を引かせ、威勢赫々(かくかく)、
 「下座せよ。下におれ−」
 と威張って通るのを見て、物外が怒った。
 「これ待て、不埒者」
 「何、待てというその方は何者だ。この方は備後の物外であるぞっ」
 という。
 「こちらこそ済法寺の物外だ。不審ならばお相手いたすぞ。世間は広くとも、日本に物外と称する者、まさか二人とあるまい」
 そう言うなり先頭の者の引いている金棒を取り上げ、みるみる三つに曲げてしまったので、にせ者は大いに怖れて詫びを入れた。本名不詳なれど、山口県の人だったという。
 以下、前後、年代不問。
 物外は相撲が大好きで、興行があるたびにたいていは見物に出かけた。壮年時代、江戸に遊学中、本所回向院に将軍上覧相撲があった。例の破れ衣で土俵の砂かぶりに座り、無遠慮にズバズバ批評するものだから、出てくる力士たち、目ざわり、耳ざわりになって仕方がない。とうとう耐えかねて座っている物外を取り囲んだ。
 「坊主のくせに小癪なことばかりいうじゃないか。素人のくせに本職の力士をこけにするほど力があるなら、どうだ、土俵へ出て一番とって見ろ」
 物外、若気のいたりで、
 「一番だけかい。二番、三番、おれはいっこうに気にしないぜ」
 土俵にのぼるや、いなごのように飛びかかってくる力士たちを、まるで子供を相手にするように手の先で、ころり、ころりと左右にブン投げた。およそ三十人ほど投げると、もうかかってくる者がいない。見物がやいのやいのと大よろこびしているあいだに、物外の姿は消えていた。
 京の河原で相撲興行があったとき、物外が見物していると、力士なかまが、
 「おや、あれは力持ちで有名な拳骨和尚じゃないか。なるほどからだつきは小力が有りそうだが、ほんとうに本職の力士に通用するほど強いのかなあ」
 「まさか−。おいどんがいっちょうからかって見よう」
 といって、大きな力士がひとり物外のそばへ寄って来て、
 「御僧、力が強いとのことだが、ほんとうかね」
 と見下したように言った。
 「いえ。拙僧とて化物ではあるまいし、大した力はありませんさ」
 言うが否や力士の首筋をつかみ、我が向脛(むこうずね)にこすりつけ、
 「まあこの程度しか力がありません。お恥ずかしい・・・」
 力士は虫の息になっていた。
 「ふうむ・・・それで力いっぱいですか」
 と、かすかな声できくと、物外いわく、
 「さいな、これ以上力を入れると骨がバラバラになって、血へどを吐いて死にますよ」

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