慶応元年、七十六歳。第一次長州征伐の際、物外は調停役を依頼され、願書をしたためて朝廷に奉呈したけれども、何の沙汰もない。
そこで門弟田辺虎次郎をつれて、青蓮院宮栗田御殿につとめている役人に親しい者があったから、上京してその人に相談した。友人は、
「そんなことは止めたほうがいい」
と忠告する。物外はあきらめない。
「もうこの上は非常手段だ」
彼は願書を田辺に持たせて、直訴させた。
田辺は捕えられたが、このため願書は目的通り上呈することに成功した。
孝明天皇、物外をお召しになる。和尚は天顔に咫尺(しせき)して、直接に願書の意を奏上する機会を得たのだった。
俗説ではあるが、彼が長州征伐の高札を両断し、書を添えて泉涌寺に投入したというのは、この前後のことである。
物外は、それから二年ほど京都の町々を托鉢していたが、尾道へ引き上げようと思って大阪まで来たのが慶応三年八月中旬。人には言わないが、体の調子が、ひじょうに悪かった。
福島屋長兵衛という宿屋−一書に、三谷屋とあるが、三谷屋は宿屋ではない。これは酒造家三谷屋市兵衛で、物外に参禅したことがあり、急死した物外の跡始末をした人物である−に、しばらく滞在していたが、十一月二十五日、明日はいよいよ出発するというので、宿料も支払い、明日乗りこむ便船に荷物まで積みこんでしまったところへ、門弟の田辺がたずねて来た。
「おう、田辺か。よいところへ来てくれた。なんだか気分がわるうてしょうがない。しばらく背中をさすってくれんか」
「はい」
田辺が背中をさすっているうちに、すーっと青白い空気が流れたようであった。
物外和尚は、ねむるように死んでいた。
遺骸は大阪中寺町の禅林寺に運んで、三谷屋の墓域に密葬し、その年の十二月十二日、改めて尾道の済法寺へ本葬したのである。
白雲の上なにもなし不二の山
白隠の隻手の音か呼子鳥
我が庵は貧しけれども白牡丹
歯が無うて丸のみにする蛙かな
最末の句には「おのが境界に似たるものは」と前書がある。
物外は俳句をつくる趣味があった。いつごろのことか、こんな逸話がある。物外の済法寺は三原市に近い。三原城は城代浅野甲斐守(三万石)の守るところであるが、あるとき画工に雁をえがかせたところ、でき上がったのは弧雁であった。
「雁は群がり飛ぶのに、弧雁は不吉である」
と城代の気に入らない。そこへ参殿した物外和尚が、それではと言って、賛を入れた。
初雁やまた後からも後からも
これで甲斐守の御機嫌がなおった。
物外の不遷流は今も道統を残している。二世田辺貞治義孝は、岡山藩玉島陣屋武術師範として、不遷館(道場)を創立した。三世は前に書いた物外京都奔走に随従した田辺虎次郎義貞で、京にのぼって盛武館を開き、後に警視庁柔道師範、また大日本武徳会創立者の一人である。四世田辺又右衛門辰雄は警視庁師範。五世中山英三郎は岡山県矢掛町で門人を教えていた。 |