前の話には後日談がある。
試合がすんで、その翌晩のことであった。物外の泊まっている宗泉寺の隠寮へ、黒覆面の武士が入りこんだ。朱鞘の大小を腰にさしているけれど、かならずしも身を忍ばせているのではない。
「物外は内にいるかっ」
と、えらいけんまくで、つかつかと入って来て隠寮の二階へのぼりかかろうとするところへ、
「曲者だ。出会え」
とさけんで駆けつけたのは、小使いの左門と、二名の寺の雲水僧だった。小使いの左門は伯耆の郷士の出身だが、備中の松山から物外に追従して来て、師とともにここで起居していたのである。
曲者の腰に下方から取りついた三人、力をそろえて引きずり下ろす。六尺以上の大男である。黒覆面がはがれたので、昨日土俵で目をまわした巨大漢とすぐわかる。遺恨におもって復讐に来たわけだが、面が割れたので破れかぶれ、刀を抜いて切りかかったが、刀術は余り上手じゃない。三人が棒をもって追っかけると大いに狼狽して、
「人殺し、人殺し・・・」
といいながら逃げまわるところへ、誰かが奉行所へ知らせたと見えて、役人が馬に乗って駆けつけ、その巨大漢を逮捕した。
この騒ぎには物外は顔を出さなかったけれど、和尚の名はこのため一躍、四隣に鳴りひびいた。そこで藩中の人たちが毎日のようにその隠寮に参聞するようになり、はては武道の指導から、仏道の講筵・問答・参禅まで色々なことが始まった。どうもこのようにテンテンバラバラの雑談式では感心しない、別席を設けて心の相見をいたしてはどうだろう、ということになった。
翌日、物外は別席において曲隶(きょくろく)により、侍者・侍香をして両脇に侍立させ、雲水僧三十五人ばかりを左右に立ちならばせて、小参をはじめた。
物外いわく、
「皆のなかに、もし身命を惜しまずして参禅学道せんとする鉄漢あらば、こころみに心の宝剣を持ちきたれ。なんじらと相見せん」
きいた藩士たちは、いずれも狼狽擬議(ぎぎ)して一言の答をする者がいない。そこで物外は椅子から下り、
「お前たち、平常は好き勝手なことをペラペラしゃべるくせに、この機会にのぞんで貝のごとくに口を閉ざしてしまうとは、何たるざまであるかっ」
と叱咤して、聴講者たちをかたっぱしから足蹴にしてしまった。
藩士らは一瞬、度肝を抜かれたが、これが禅機だと思うから腹も立てず、ただ「有りがたし有りがたし」といって合掌し、いずれも心中の我慢を折り、心地が大いに快活なるを得たという。
そのあとで一同はまた穏寮に帰り、茶を煎じながら、物外みずから禅の心をやさしく解説して教える。
「諸君、禅宗というものは別に奇特のことがあるわけではありません。雨竹・風声、みな禅を説いているのだと思いなさい」
思うに物外禅師の怪力、その武芸、すべてこれ奇々怪々である。常人ではかんがえられない奇跡であろう。観音普門品に「執金剛神をもって得度すべき者には、すなわち執金剛神を現じて為に説法す」とある。かの金剛夜叉といい、執金剛神といい、蜜しゃく(亦にえんにょう)力士といい、仁王というのは、みな同体異名である。これが寺の山門に祀ってあるのは仏法守護のためである。
物外の怪力たるや武術たるや、とうてい人間業とは思えない。金剛力士の生まれ替わりと、世に称されるのも無理からぬことであろう。
なお、『雲州武芸史』を見るに、物外和尚が宗泉寺に滞在中、松江藩直信流柔道十代師範の石原左伝次の門人、小倉六蔵(後に十一代師範、堤六太夫重正となる)が、物外和尚と試合して勝った。
「雲藩の柔道は強いなあ」
と、さすがの物外も舌を巻いたとある。物外が試合して破れたという話は、あとにも先にもこれ一つしかない。
ちなみに直信流柔道は、寺田勘右衛門満英(一に正重)を流祖とする。父の八左衛門頼重(この人は起倒流の内で、貞心流組打と称した)から貞心流を習い、これを直信流柔道と称した。寺田家は、松江藩伝のこの流の正統を伝えて直信流柔道という。「柔道」も名目はこの流が嚆矢で、むかしは大ていの流派では柔術といっていた。
明治後、講道館柔道が流布してからは、諸流とともに「術」のかわりに「道」の名目に変わってしまった。
ついでに書く。十一代堤六太夫の系譜は、次のとおりである。
福野正勝(良移心当流)寺田平左衛門定安(貞心流和術)茨木専齊俊房(起倒流乱)〔並列:3つの流派を修得〕 − 寺田八左衛門頼重 − 寺田勘右衛門満英(起倒流・真信流) − 寺田平左衛門定次 − 雨森次右衛門行清 − 加藤気堂正昌 − 石原(岡)左伝次中和 − 梶川(横山)純太夫橘一成淡水 − 石原左伝次中従 − 堤(小倉)六太夫重正 − 井上治部太夫正敬水成 − 松下善之丞栄道 − 大賀美隆利 − 松下弘 − 松下敏 |