第七話 落語『三十石船』

 曹洞宗では古来、転衣参内(てんいさんだい)ということであって、転衣というのは大本山
にのぼって一夜住職をなし、本山から公文というものを下付され、それまで黒衣であった者
に色衣(しきえ)着用をゆるされる宗規のことで、これで大和尚の位になるのである。それ
についで京にのぼって参内をゆるされ、御綸旨(りんじ)をいただき、宝そ(しめすへんに
乍)長久国家安全を祈る旨を仰せ出されるわけであるが、維新以来、御綸旨頂戴の儀だ
けは廃止された。
 物外は万延元年(一八六0)九月上旬、この転衣参内のために尾道より大阪にのぼり、
同所から三十石の川船に乗り込んで伏見に向かった。が、途中ひと睡りして目ざめると、
ふところに入れておいた三十両の金子を盗まれているのに気付いた。そして、まだ伏見へ
着いたわけでもないのに、枚方へ着船したおり、船を下りていった者があるのを知った。物
外は金子を盗まれたことは色にも出さず、船頭に向かって、
 「これ船頭さんよ。まだ船が出るまでに時間があるのなら、そのあいだこの船の舳先をさ
かさまにして、これから大阪へ下るような様子にしてくださらんか」
 という。
 「坊さん、何を言わっしゃるのじゃ。今から大阪へ船は返せませんや。ほかのお客がめい
わくじゃないか。」
 「いや実際に大阪に下るのでなければ、よいだろうじゃないか。愚僧はこんな物をもって
いる。栗田の宮さまより三十石御免の旗だ。無理をゆうて船を大阪へ戻させてもよいのだ
よ。だが船を戻せとは言わぬ。ただ舳先をさかさまにして、下り船に見せかけるだけでよい
のだから」
 「けったいなこと、せいと言わっしゃる。が、まあ言う通りにして上げよう」
 舳先をなおして、しばらく待っていると、下り船だと思って新しい船客がひとり乗りこんで来
た。大阪からいっしょに乗って来て、ここで下船した男にちがいなかった。こいつが盗人だ
とすぐわかる。さっきは上り船、今は下り船で、ちがう船だと思って乗って来たところが、同
じ船だと知ると、盗人はギョッとし、顔を土いろに変えた。
 「おお、あんたじゃったのう。さいぜんの金を返しておくれでないか」
 和尚の一言、盗人は恐れ入った。
 この話は、大阪落語の『三十石船』に、そっくりである。物外の逸話から落語ができたの
か、落語がもとで、物外の逸話ができたのか、さあ、どちらがどちらとも決められない。 物
外は無事に上洛した。参内して孝明天皇に拝謁仰せつけられたのは、この時である。
 文久三年(一八六三)三月、物外は備中松山に行って、門人の建次郎という者の家に逗
留し、ついで六月の末、雲州松江の宗泉寺の隠寮を借りて滞在した。
 たまたま伯耆から、身のたけ六尺八寸という巨大漢の侍がやってきて、
 「尾道の今弁慶どのにお目にかかりたい」
 と申し入れた。
 「拙僧は物外だよ。今弁慶などという名ではないぞ。帰んなさい」
 「いや、今弁慶でも物外和尚でも、わしは構わんわい。勝負をしに来たんじゃ。立ち会わ
っしゃい」
 と嵩にかかって吼え立てる。
 物外は身のたけ五尺七寸ぐらいだったというから、これでも普通人にくらべては相当長大
だ。しかし何にしても相手の侍は六尺八寸もあるというのだから、向かい合っては見上げ、
見おろすほどの違いだ。一尺一寸のちがいというば、正にくらべものにならないくらいだろ
う。道みち、「おれは今弁慶をやっつけて見せる」と、大言を吐き吐きやって来たらしく、こ
れは見物だというので弥次馬連中がワイワイガヤガヤはやし立てながら、たくさんついて
来ていた。これでは物外、いやだといって逃げを打つわけにも参らない。
 「ほう、試合がおのぞみかな」
 「おのぞみか、なんてそんな手ぬるいものではないぞ。ぜひ、やってもらわなければなら
んのだ。それも、すぐだ。この場所でだっ」
 「あはは、そう気のみじかいことを言わっしゃるな。試合となれば、場所も選ばねばならん
し、土俵も・・・」
 と言いかけて相手の姿をジロリと見まわしてから、
 「そうだな。あんたのからだつきじゃ撃剣じゃあるまい。力くらべというなら柔術か相撲だ。
やっぱり土俵を造ることにしよう。場所はこの寺の広庭でよい。日時は明日の朝のうちでよ
かろう」
 「よし、きめた。坊主、逃げ出すなよ」
 「お前こそじゃわい」
 その日のうちに土俵ができた。翌朝になると、うわさをきいた見物人で庭中が一ぱいにな
る。
 しかし、勝負はあっけなかった。両雄、一声おめいて取っ組んだと思ったら、小さい方の
物外が大きい方の侍を小児のように担ぎ上げて、エーイとばかりに投げつけた。二、三間
さきの地面へたたきつけられた侍は、キュッと言っただけで目をまわした。挑戦のときにあ
れほど多弁だったのだが、じっさいは寡黙の士だったのかも知れない。

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