済法寺の門前に高さ二尺余、幅三尺、長さ七尺ばかりの花崗岩の手水鉢がある。
ある日、和尚が中庭の掃除をしていると、ひとりの武者修行者がやってきて、言っ
た。
「物外和尚は御在宅でござるか」
「いや、ただいま不在であります」
と答えたのは物外。めんどう臭いのでそういい、だんだんに掃き進んで門前の手
水鉢のところなで来たが、左の手でヒョイと手水鉢の一角をもち上げ、右の手の箒で
石の下のごみを掃き出した。見ていた武士がおどろいた。弟子坊主がこんなに大力
では、和尚の大力は推察に余る、と感ちがいしたのだろう。
「はあ御不在なら止むをえぬ。また御在寺のとき出直して参ろう」
それっきり二度と来なかった。
尾道の船着場に、米俵が十五、六俵積みかさねてあった。それを、仲仕たちが大
勢で運ぼうとしているところへ、物外が通りかかり、つい何気なく、
「いやどうも、これだけの重量があれば、お前方にはずいぶん骨が折れるだろう
な」
と言う。
「そういうお坊さんには、大して骨が折れないのかね」
と仲仕のひとりが言い返した。
「おのれに担げる覚えがなければ、そういう口はきけないはずだぜ。いっちょう、か
ついで見せてもらえないかね」
と、もうひとりの仲仕がいったので、物外も相手になる気が起こった。
「試しに担いでみるだけのことなら、いやだよ。その米俵をのこらず拙僧にくれるな
ら、やって見る。ムダな骨折りはしたくないからのう」
これが大力で有名な物外和尚と知らない仲仕連中、へらら笑いで承知した。
「おもしろい。米俵をやろうじゃないか。しかし、十六俵、一肩に担いだら、だ。わか
っているな」
「わかっているとも」
一肩ということになると、工夫が要る。物外は港口に行って、大きな船の帆柱を、
船頭から借りてきて、八俵ずつを両側にくくりつけ、下駄ばきのままでそのまん中へ
肩を入れた。
「どっこいしょ」
掛声もろとも軽々と担ぎ上げたから、仲仕どもがおどろいた。やるとは言ったが米
俵は問屋の米だ。一俵たりとも持って行かれてはたまったものではない。人をみだり
に嘲ったのは自分たちの無調法、和尚さま勘弁して下さいというわけで、銘々平蜘
蛛になってあやまったから、
「そう言うのなら勘弁しよう。何もこれがほしいという訳ではない」
と言って別れた。そのとき済法寺の物外と名乗ったので、その後、仲仕なかまから
毎年、盆暮れの礼儀を欠いたことはなかったという。
ちなみに言う、関西では米一俵は三斗一升が明治後の規格だが、維新以前は三
斗三合入りであったそうだ。十六俵では目方にして二百二十貫目以上である。
嘉永二年、六十歳。この年、物外は姫路城の酒井家から毎年二百石の扶持をも
らうことになる。その機縁、また彼の大力にあった。
ある日、物外は須磨の浜辺を通りかかった際、姫路藩の家老・諸役人達が船遊び
をしているのに出会った。物外はうっかりしてその船の艫綱に蹴つまずいた。彼はい
つもの破れ衣を着て、見すぼらしい風俗をしていたので、乞食坊主が粗忽な無礼を
はたらいたように見られたらしく、何処の僧かと咎められ、備後尾道の済法寺の物
外であると名乗ったところ、
「なに済法寺の物外−すると貴僧があの大力で知られた和尚でござるか」
と、急に態度がかわり、その物外さんなら是非自慢の大力を見せて下されとせが
まれ、それならばといって船遊びの千石船の艫綱をつかんでプツリと捻じ切って見
せた。それから物外は千石船に招待され、さらに姫路城に招かれて二、三日逗留の
上、藩公に謁見して法談を言上した。これより酒井公は彼に帰依して、済法寺を祈
願所としてさだめ、祈願料として毎年二百石(一に二百五十石)下され、物外も年に
一度かならず城中に伺候することになった。
上の記事は『物外和尚逸伝』に拠ったのだが、同書拾遺には、いくらか変わった説
明をしている。
武田物外には泥仏庵という別号がある。元来、禅語に「泥牛月ニ吼エ、木馬風ニ
イナナク」の語であって、これは機語といって言語動作によっては外面的に解説でき
ない。心中にチラと感じる可能性、とでもいうしかあるまい。この機語を採って庵号が
できたのには別の理由があるのだった。
但馬国出石藩士、山本庄蔵が子細あって出石を退出し、姫路藩に出仕して酒井
公の寵をうけていた。この山本は以前から物外和尚と入魂だったので、ある日その
怪力談を公に申上げたところ、ぜひ会いたい、招待せよとのことである。そこで済法
寺に行って君命を伝えると、物外も承知して、姫路の白鷺城へ同候し、謁見を給わ
った。その節、公から怪力を見たいとのことであったので、日を代えて須磨の浦へ出
かけていった。物外はまず漁船の手皿洗いをして見せ、碇綱をつかって七十人を相
手に力を競い、さらに碇綱を寸々に捻じ切った。これによって物外に七十人扶持を
給い、姫路に一庵を新築して物外の来錫にそなえた。物外、その庵に名づけて泥仏
庵という。藩公は物外の怪力のタネを後世に伝えたいと思い和尚に侍妾をすすめた
が、もはや老年であるからとことわった。
「それでは、せめて拳骨の遺物を−」
と請うたので、物外は槻の一寸の厚板、長さ一尺六寸の額面に、「敬遠」と書き、
落款の下に拳骨の印をつけたもの三面、一つは藩公に、一つは山本氏に、一つは
泥仏庵にのこされた。時に安政元年(一八五四)という。 |