物外和尚伝の根本資料として最も信頼できるものは、物外の弟子、木鈴(もくれ
い)和尚が壮年時代に書いた稿本「物外一大鏡」(済法寺蔵)で、その全文は雑誌
「通俗仏教」第十二号(明治三十四年三月刊)に発表されている。高田道見の編集
した『物外和尚逸伝』(明治三十七年一月刊)もこの資料を基本にしているが、他に
おびただしい聞き書きが加えられ、また物外の俳句を手広くあつめてあるのが珍し
い。以下この両資料を中心に、なお若干の文献を渉猟してまとめることにする。
備後の国、尾道市の町はずれ−正しくいうと、御調郡栗原村の在、大宝山ふもと
のささやかな庵室。これが拳骨和尚こと、武田物外の住んでいた曹洞宗、済法寺で
ある。「拳骨和尚のお寺」といえば、だれでもよく知っている。
もって生まれた超人的な大力で、拳骨では天下ずい一といわれた奇僧。いかなる
堅い板でも和尚の拳骨で打てば、かならずへこんだものだ。これは大力だけでなく、
平常の訓練によってそうなったのである。
むかしは心がけのよい武士などは、特にこういったことを常に訓練していたので、
幕末剣豪中の指折りだった平山行蔵なども、昼夜読書のときなどには、きまって傍
らに槻の木の板を置いて、これを拳骨でなぐりながら読書した。
「本を読むといっても、手のほうを遊ばせておくのはムダじゃないか。だから拙者は
読みながら拳骨を堅めるんだ」と口ぐせに言っていた。
武田物外は、拳骨和尚という俗称で世間に知られたが、武術では何でも来いだっ
た。剣法は不遷流開祖という。不遷は彼の(いみな)である。柔術は高橋猪兵衛満
政について習った難波一甫流であるが、これも自分では不遷流といっていた。鎖鎌
は山田流、馬術は大坪流であった。
右のうち難波一甫流は、略して一甫流という。技目は腰の廻り・剣・杖・取手・縄術
である。流祖は長州の人、難波一甫齊久永。元和年代の人、又はそれ以前の人と
もいうが明確ではない。流裔は広島藩に宇高専三郎直次があったから、物外の師
の高橋はその門系であったのだろう。
山田流鎖鎌の山田心竜軒(俗に真竜軒)は幼名真之助、天正九年(一五八一)、
肥後国宇土郡山田村の出生という。新陰流関口刑部左衛門忠親の門人という説も
あるが、この関口は架空人名としか思えない。山田の名は、念阿弥慈恩を初祖とす
る一心流(棒・捕縛・鎖鎌・手裏剣)の系譜の四代目に見えている。ちなみに一心流
という流名は、六代目の丹一心から発したと思われる。
『今世日本勇士鑑』に「四十二万六千石、松平安芸守様領内、備後国、尾道、西
方寺物外道人、六十歳。父は浅野家譜代の長臣。雅名才次という。生得強勇にし
て、二歳にして十二貫目有る土俵を持ち、十二歳より出家となり、西方寺に住し鎖
鎌の名人也。常に二百貫目あるつり鐘を玉の浦に持ち出し、洗うことを楽しむ。又
発句ははいかいをよくす。碁は初段なり。今度酒井雅(楽)頭様へ、二百石に召しか
かえ給う。博学の僧也」
誤記もあるが、鎖鎌を持つ画像をえがいているのは、その特技で著名だった証で
ある。『物外和尚逸伝』拾遺にも、武芸中、一番得意だったのは鎖鎌で、某藩で遊ん
だ際、藩士が入浴中の物外を槍で襲ったが、物外は匿し持った鎖鎌で槍をからめ
取り、寸々に切断してしまった話を書いている。
寛政七年(一九九五)、伊予の松山うまれで、父は松平隠岐守の家臣、三木平
太。母は森田太兵衛のむすめである。この寛政七年説は、彼が天保元年(一八三
0)に、尾道の済法寺の住職になるときの願書に、「今年三十七歳にまかり成り候」
とあるのに拠るので、これによれば後に慶応三年(一八六七)に入寂したときは、七
十八歳ということになる。 別説がある。彼は幼名虎雄といい、寅の年、寅の月、寅
の日、寅の刻にうまれたという。寅年ならば寛政六年であるが、これは付会の説らし
い。寅のそろった生まれの人は豪力の傑物であるという俗説があるから、怪力の物
外をそういうふうに言い出したものと思われる。
また別な珍説もある。彼の母は、結婚前には松山城のお風呂女に上がっていて、
そこで藩主松平隠岐守のお手がついた。物外は藩主の落胤であったというのである
が、どうも講談的マンネリズムに過ぎないようだ。かつて三田村鳶魚翁から聞いたこ
とだが、将軍や大名が奥女中に手を付ける例は多いけれど、お風呂女中を風呂場
で手込めにすることは、ほとんど有り得なかっただろうとのことであった。 |