第二話 塩辛小僧のいたずら


 物外は寛政十一年五月、山越の竜泰寺の祖燈和尚のもとに小僧にやらされ
た。五歳である。ずいぶん手におえないいたずらばかりしている。
 十歳のころ、広島の中島本町の伝福寺観光和尚(『物外一大鏡』には伝福寺
円瑞としているが、円瑞の名は確証がない)が道後温泉へ入湯に来て、旧知の
祖燈をたずねた。そこでいたずら小僧が目にとまる。
 「手におえない小僧らしいな」
 「うん。どうも、手こずっている」
 「じゃあ、おれが一つ引き取って、しこんで見ようじゃないか」
 ということになって、広島へつれもどった。
 観光和尚は弟子を育てることが上手で、嗣法の弟子は十人以上もあったとの
ことだが、さすがにこの小僧には手こずった。なるほど祖燈の言った通りで、箸
にも棒にもかかったものではない。土地の方言で腕白のことを塩辛という。そこ
で塩辛小僧の名が売れはじめた。十二歳ころ和尚さんに内緒で、撃剣や柔術の
けいこに通い始めた。むろん、子供に似げなく腕力がすこぶる強い。
 あるとき半町ほど西を流れている本川に、洪水で大きな石地蔵が押し流され
てきた。見つけた子供やおとながガヤガヤさわいでいると、ひょいと飛び出して
来たのは塩辛小僧だ。じゃぶじゃぶ水の中へ入ってゆくと思ったら、その石地蔵
をちょいと抱きかかえて、あっけにとられている見物人たちを尻目に、すたこら
運んで帰って、
 「どっこいしょ」
 と、伝福寺の門を入ったすぐ右手の場所にすえた。高さ五尺、幅四尺、厚さ一
尺あまりで、もとより大の男でも一人では無理な重さであるから、何にしても大し
た怪力小僧である。
 十三歳の冬、伝福寺を去って、広島藩主浅野家の菩提所、国泰寺に移った。
 一、二年は無事だったが、十五歳のとき、広島の西方、茶臼山で子供の喧嘩
があって、武士側の子供軍と、町人側の子供軍が雌雄を決することになった。
塩辛小僧は弱い方の町人側の味方、しかも参謀格といったところであった。
 この喧嘩は、町人側の子供の親たちが心配して役所へ届け出たため、未然に
中止させられたが、役人が国泰寺へ行って役僧と談判中、秘密破れたと知った
塩辛小僧はすぐに子供なかまの連判帳を手洗場へもってゆき、線香の火をつけ
て焼きはらい、すましこんでいた。役人は茶臼山の陣立てを検分して、地雷火の
ような物を仕掛けたりした、大がかりなのを知り、小僧を役所へ呼び出して取り
しらべると、こんどのことは『太閤記』を読んで工夫したと答えたので、大いに肝
っ玉をうばわれ、国泰寺に勧告して小僧を追放させ、伝福寺の観光和尚からも
勘当を押し付けられてしまった。
 物外は十六歳から十八歳まで大阪にいて、儒学を学んだ。十八歳の文化九年
(一八一二)十二月中旬から雲水の生活が始まる。二十三歳のころ、東海道の
府中に庵を結んで修行していたが、時に遠州の竜泉寺に江湖会および授戒会
があったのに参詣した。そのとき雲水僧の盛んな問答があり、物外は群衆のな
かから黒染の直綴に袈裟をかけて問答に加わった。助化師として指導したの
が、山城宇治の興聖寺磨専瓶とて有名な和尚であったのを機縁に、物外は宇
治に掛錫すること三年、弁道大いに努めた。
 文政二年(一八一九)二月中旬、京都へ出、尾州に行き、ついでに江戸本郷
の吉祥寺、いわゆる駒込の栴檀林(駒沢大学の前身)の加賀寮に入った。文政
三年。時に二十六歳。
 駒込栴檀林は、そのころ小石川伝通院の学寮とならんで双璧といわれてい
た。宗派の学寮は各宗ともあるが、江戸では芝増上寺の学寮はお上品で裕福
な学僧が多く、栴檀林の学僧は貧乏で覇気が強かった。
 だいたい仏学をやるためには、基礎になる儒学がどうしても必要なので、当時
唯一の官学であった湯島の昇平學から、すじのよい、よくできる学生を、学寮へ
呼んで講義をきく。これを湯島の学生のなかまでは売講といっていたが、駒込栴
檀林の学僧たちは、なけ無しの銭を出し合って講義に来てもらうのだから、受講
には真剣で、つねに鋭い質問を連発して、需仏両学の優劣論を吹っかけたりす
る。それで栴檀林に売講にゆくのは鬼門だ、と言われていたくらいだった。
 物外が浅草蔵前の古道具屋で碁盤を買った逸話は、そのころのことであろう。
 「いい碁盤じゃないか、いくらだ」
 と物外がたずねると、店主はもみ手をしながら、
 「へえ、一両二分でございます」
 という。
 「いま金をもっていないから、後でもらいに来る。ひとに売らないでくれ」
 「でも何か、手付けでもいただかないと・・・」
 店主の催促を軽くうけとって、
 「ああそうか、では−」
 と物外は、碁盤をうら返し、鉄のような拳骨をふるって、ポカーンとなぐりつける
と、そこにあざやかな拳骨の痕がつく。
 「これならよかろう」
 亭主、目を白黒させ、あきれ返った。
 物外の拳骨については『物外和尚逸伝』に次の記事がある。
 −師が一たび拳骨をいれらるれば、堅木もまた凹むのである。けれど徒に拳
骨を濫用せらるる様なこともなし。滅多にその力を出さるることはなかったので、
余程憤激せらるるか、さもなければ非常に意気込まれぬと本当の拳骨力は出な
かったのである。師の生前を知っている人より聞くに、師がわざわざ碁盤にでも
拳骨の痕をのこそうとして入れらるる時は、玉だすきを掛け、非常なる力をこ
め、さも恐ろしそうなる身構えをなし、その勢いに乗じて入れらるるとのことであ
る。
 (中略)今でも済法寺には、和尚の入れられた拳骨の痕がついておる碁盤が
ある、云々。

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