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  鳥にもなれず、獣にも……
                                 森  マ コ
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 私の母の時代には、太平洋戦争があった。私が高校生だった頃は、ベトナム戦争の時代。私の娘が小学校四年生のときに、阪神淡路大震災があった。
 したがって、戦争を体験していない私たちの世代の目で何かを言うと、よく母からお叱りを受ける。何をするにも、「ちょいと、マコさん、昔は……」と前置きが必ず入るのである。
 自分のことだから、ほっといてくれないかなあ、と思う時もあるが、一応、年長者を尊重する意味で、黙って母の説教を聴く振りをする。経験という心の引き出しを、たくさん持っている母の言葉には、重みもあり、小言の九十パーセントは間違ってはいないとも思うのだが。たまに、ぐっと胸にこみ上げてくる迷いに似たわだかまりというか、しこりを感じずにはいられない。
 よく近頃の子供≠ニいう言葉を聞くが、私は近頃の子供といわれると、決まってその子供の親はあなただと、そう思ってしまう。
 私が二十代の頃、新人類≠ニいう言葉が流行した。私たちは新人類だそうだ。まさしく時代背景を物語っているが。その新人類の私たちの次の世代である娘たちは、いったいどう呼ばれるのだろうか。
 小学生の学力低下についての新聞の記事を、時たま目にするが、何を基準に誰がそう言い出したのか。
 母は、年賀状を毎年見るたびに嘆く。
「パソコンの印刷文字には風情がない」と。
 私は、「またか」と思う。印刷する人もいるけれども、筆で一枚一枚書く人もいるから、一概に風情だけで処理してほしくないのだ。
 母に、今の十代を自分の頃と比較してほしくない。時代が全く異なっているからだ。昔の人間だけが偉い人ではないのだ。
 私や娘は、太平洋戦争の時代には存在しなかっただけなのである。東京大空襲や、原爆投下の広島には居なかったのだから。
 その時代に居なかったけれども、戦争時代を体験した人びと≠介したり、勉強をしたりして、その時代を知ろうとしてきている。
 T小学校でこんな話を聞いた。
 母親と三十代の女性教師の話。
「先生は、子供を生んでないから、母親の気持ちなど理解できませんわね」
 母親でなければ子供の親の立場などわからないと、その母親が言ったそうだ。
 確かに母親の立場になったことのない教師ならば、そう言われば仕方のないことなのだが、母親の紋切り型の口調にも、心が無いと思って悲しくなった。
 娘たちの勉強の方法や手立てが、母の時代と違ってきているだけなのである。
 私はよく娘としりとり≠して遊ぶ。誰もが子供のときにやって来た遊びだ。
 りんご―ごりら―らっぱ―パセリ……というあのしりとりで、やりだすと結構おもしろい。だが語彙の多さでは、娘は私に敵わない。
 ところが、最近、このしりとりが、英単語に変わってきた。大変なことになった。
 Apple―engine―England―doorと綴りでしりとりをしていくのだ。辞書を使ってはいけない決まりになっている。
 とたんに、私の旗色は悪くなる。もう、壁といわず、畳と言わず至るところに目を走らせ、何とか、英単語が転がっていないか探す。
 英語はYで終わる綴りが割りと多い。だが、Yで始まる単語は少ない。
「ヨーグルト」と苦し紛れに言う。「単語の綴りは?」と娘が聞く。「じゃあ、ヨット」、「単語の綴り?」、「仕方が無い、ヤフー」、「それなら許す」、「やっちゃん!」、「ダメ! 人の名前を使っちゃ!」。こんなフウなのだ。
 娘と母が英語のしりとりをすれば、私以上にきっと母は苦しむはずだ。母は開き直ったりしない。判らないだろう。
 イソップ童話にこんな話がある。
 鳥の仲間と獣の仲間が戦争を始めた。旗色を見て、蝙蝠が言う。「私は羽を持っているから鳥です」。鳥の大将は蝙蝠を鳥として扱った。ところが、獣達が優勢になったとたんに、蝙蝠は獣達の陣地に走り出して、獣の大将にこう言うのだ。「私は、羽をもっていますが、体を見てください。体は獣ではありませんか」。こうして、蝙蝠は、鳥になったり獣になったりするのだ。
 私は、娘と母との間に入って、蝙蝠になってしまった。それも、若い蝙蝠なら、いざ知らず、中年蝙蝠である。
 平和だが、恐い世の中。私は未だ、鳥にもなれず、獣にもなれずにいる。
 どうせ蝙蝠なら、せめて若い蝙蝠でいたいものだ。
 欲を言うなら、物事に、柔軟に対応出来る頭脳を持ち合わせた、若い体を持った蝙蝠でありたいのだが……。

◇作品を読んで

 感想文は、あることについて書き手の感じ方や見方を書く。「あること」とは、社会的な事象、人物、事件や風俗、習慣など多岐にわたる。
 人物について書くことは、自分を述べることであるが、同じく感想文も自らの内面をさらけ出すことになる。
 ことさら難しい語句を並べ、持って回った書き方をする人がある。しかし、作者は数人の立場の異なる人物を登場させ、それについての思いを素直に書いた。これは大事なことである。
 最近の子ども、年代の違う母と娘、そして、微笑ましいしりとりの情景など、読み手に理解してもらおうとする材料も面白く的確である。イソップ童話の引用も効果的に使われている。
 誰が読んでも理解できるように書くという書き手の姿勢は、文章の分野を問わず基本である。