随筆 私のマジックアイ
大田 静間
島根日日新聞 平成16年7月1日付け掲載
白黒テレビが普及する前、茶の間のラジオは貴重品扱いの時代であった。 その頃、私は、真空管式の五球スーパーラジオを組み立てた。 費用づくりに苦心したから、値段をはっきり記憶している。通信販売のキットが千五百円であった。真空管のメーカーまでも覚えている。管の頭に、ニュースターと印字がしてあった。 昭和二十九年、私は工業高校に入学した。昔風に言えば、これからの時代は技術を身につけるのが得策だと、担任の先生に勧められたからだ。 困ったことに、高校は私の町から当時の列車で二時間を超えるほどの遠隔地であり、家を離れなければならなかった。 その頃は、下宿代が月額五千円くらいであった。それでも母は許可をしてくれた。しかし、夏休みまでしか続かなかった。父は戦死していたから、母の洋裁収入だけでは、五千円の捻出は困難であった。 考えたあげくに、学校の近くの民家で間借りをすることに決めた。今では想像もできないことだが、障子一枚を隔てた向こうには家主の生活があった。 二学期から、そんな六畳間で自炊生活を始めた。娯楽と言えば、障子の向うから洩れ聞こえる浪曲の放送か、近くの貸本屋から借りる怪しげな雑誌くらいのものであった。 何日か経って、そのような生活に馴染んだころ、ある一つの願望が頭をもたげてきた。 好みの番組を聴くことの出来るラジオが欲しい。なんとしても欲しかった。 私はこらえ性がなく、しかも執念ぶかい。 そこで、昼の売店で買う昼食は、ジャム入りのパンだったものをコッペパンにランクを落し、夕食は、隔日に食べていた魚を三日に一度にした。そして、千五百円の捻出を決めた。 製作に当って、ひとつだけこだわりがあった。 昔のラジオは、筐体の前面にダイヤルと周波数の文字、それを指し示す針があるだけであった。私のこだわりとは、これに加えて前面に直径三センチメートルくらいの円形で、若葉色を発光する真空管を組み込むことであった。 これをマジックアイと呼んでいた。 猫の目の瞳孔が大きく変わるように、選局が曖昧な時には発光の中心が扇形に欠け、局が定まると一瞬にして、円形全体が若葉一色に発光する仕組みである。 組み立てる五球スーパーラジオとは、真空管を五本使用し、マジックアイは、その内の一本に含まれている。ただの装飾であり、性能には無関係で経費はかさむ。だが、その発光球にこだわった。 製作途上のある日、通信販売の存在を教えてくれた近くに住む先輩が訪ねて来た。 私の未完成品をしばらく眺めていたが、突然腹をよじって笑い出した。なんと、真空管のソケット取付けが逆様になっているというのである。このまま電源を入れると、黒焦げになるところだった。 こんな危険をはらんだ経緯があるだけに、完成後、スイッチを入れる瞬間の張りつめた気持を今でも忘れてはいない。 上出来であった。 小畑実の甘い声をよく出した。三浦洸一が謳う「落葉しぐれ」は、低音域でビリビリと震えたが、私のスピーカーは破れることなく耐えた。その時間だけ、隣室の迷惑も考えず私は歌手になった。障子の穴に家主の眼があったが、気にもとめず自慢のマジックアイを見詰めながら至福の時を過ごした。きっと私の脳内には、良質のホルモンが多量に分泌していたに違いない。 三年の高校生活が過ぎ、私は大阪に就職した。その年の正月に帰省した時、私のラジオが母のミシンの傍らにあった。 ダイヤルで針を廻す紐は切れ、指針はNHKに固定されたままであったが、マジックアイだけは若葉色を煌々と放ち、健在であった。 |
◇作品を読んで
少年期から青年期にかけて、男の子は科学的なことに興味を持つ。作者はラジオを組み立ててみたいと思った。戦後のことでもあり、まだ鉱石ラジオで聴いている家庭もあった時代である。科学好きな者にとって、自分で組み立てる五球スーパーヘテロダインは、まさに最高の趣味であり、そのラジオは超高級品でもあった。 作者は、生活を切りつめ、キットを手に入れて製作した。マジックアイが輝き、スピーカーから音が出たときの何物にも代え難い感激と喜びがよく分かる。数回にわたって書き直されたこの作品には、青春の思い出が生き生きと描かれている。 手作りで楽しんだ時代に育った人達が、今の技術王国日本を打ち立てたはずである。東京の電気街、秋葉原からは、各種のパーツを扱う小さな店が消えていくと聞いた。それでよいのだろうか。この作品は、そんなことも語りたかったかもしれない。 |