随筆 句会にて
遠 山 多 華
島根日日新聞 平成16年6月10日付け掲載
朝から予報通りの晴れ、鳥取「大山滝」の五周年句会の日だ。 一週間前、茶摘みをした際、私は一日中、正座の姿勢で茶の葉の選別をした。そのせいか腰と脚が痛み、医者に行って注射と電気的治療を受けた。更に、私独特の健康体操をやったら良くなった。 諦めかけていた大山滝句会も出席できる自信が湧いてきた。その気になると、引っ込みのつかない私の気性である。それが良いことか悪い性格なのかは、亡夫がよく知っていたはずだ。 とにかく柳友のKさんに電話をしてみる。車に余裕があるからとのことで、当日の午前九時頃に迎えに来てもらうことになった。嬉しい。ありがたい。甘えることにした。 句会の兼題は四題である。選者は、二人共選だという。それにも魅力があるから是非行きたいのだ。 一日の余裕をおいて、早々と作句した。自信はないが、なんとかまとめてみる。 句会を終えた帰りにがっかりする分でも、出掛ける時には、意気揚々と出陣の構えである。このときめきを失えば、惚けるばかりで人生は終わりだ。 当日、約束通りの時刻になった。運転はベテランのKさんが、わざわざ家までの出迎えである。 出雲で二人の仲間を拾い、松江では柳友の車と合流する。賑やかな門出だ。車内は、炎えている。趣味の仲間は、老若男女を問わない。話題は共通である。 新緑の中、ドライブに心を洗われる。ストレスも吹き飛び、目に触れるもの全てが新鮮で、別世界に誘われた感じだ。 車窓に流れる風景の中に、月遅れまで端午の節句を祝うのか、鯉のぼりが泳いでいる。昔は「日本男児ここにあり」と、威勢がよかったけれど、鯉のぼりが僅かに残るのを見ると、さすがに少子化を物語って淋しい。 昼食を摂るために食堂に入る。思い思いのメニューを選ぶが、一人が「前祝いだ。カツ(勝つ)カレーにする」と言う。私も同調して、カツ(勝つ)丼を注文した。ところが、丼と思いきや、何と、皿に大盛りである。驚いたが、とても大量で食べ切れない。向かいに座ってるAさんは、ピザか何かで軽いものらしい。自分の好みで注文したものだろうが、若い、大の男だから、とても足りないだろう。 咄嗟に、私は箸を付けない前にカツを別皿へ移し、「多過ぎるので、手伝って食べて下さい」と、差し出した。Aさんは、「ありがとう」と、素直に受け取ってくれた。嬉しかった。趣味の友達にも、さりげない交流があって心が和む。 十二時を過ぎて、目的の浦安駅に近い『まなびタウンとうはく』という会場に到着した。既に満席の状態だ。聞いてみると、七十人を超すという。「欠席投句は、お断り」ということだが、かなりな出席人数だ。 一題二句共選だから、同一句を二句ずつ提出する。何だか、ややこしくて戸惑った。ここでも齢を感じることしきりだが、とにかく投句を終える。 後は、披講である。選者は男女一組の共選だが、男二人の共選もある。 ちなみに、入選句は次のものだった。 「休」 休刊日休肝の日と決めました 「秘」 秘密もう喋らないシュレッダー 束縛の赤丸のあるカレンダー 「友」 友情という毒舌に毒はない 期待した共選もまずまずで終わった。一人の選者に二句入ったり、二人の選者に同一句が入る、一人だけに入る、などなどいろいろだ。やはり、共選は選の傾向が違うことを感じた。しかし、佳い句は佳いのだから、二人共に選に入る。いい勉強になった。もちろん、選者に当て込んで作句するなどは、卑劣なのだ。あくまでも佳いものは佳い。作句の精神を忘れてはならない。 それもこれも、投句だけでは駄目である。句会に出席して現実の雰囲気に染まり、力強く呼名して、その歓びに浸ることが至上の幸せである。そんなことを身近に体験することによって、向上するのではないだろうか。 心温まる至福の一日。老体の足になって運んでいただいたKさんに感謝である。 明日への夢が膨らんだ日であった。 |
◇作品を読んで
作者は散文も書かれるが、川柳も堪能である。句会となれば、どこにでも出掛けられる。出雲や松江ばかりではない。遠くは大阪辺りまでも、足を運ばれる。心身共に、若さを保つ秘訣ではないだろうか。 句会が鳥取県東伯町の浦安であった。作者は、柳友と出かけることにした。出雲からの車中で交わされたであろう楽しい会話、昼食のカツ丼にかこつけた句会に乗り込む意気軒昂たる気持ちと仲間同士の交流の様子がよく伝わってくる。 作者は、短い文章しか書けないとよく言われる。よい文には、長いも短いもない。むしろ、制限された短い文で、思いを書くということのほうが難しいのではないだろうか。 |