随筆 朝のウォーク
渡部 由紀子
島根日日新聞 平成16年5月27日掲載
私の考えは違っていた。 西代橋から北神立橋へ至る四キロのウォーキングコースは、単調で景色が良くないと思っていた。 ところがそうではなかった。 朝、五時三十分、私は車を土手に停め、西代橋の南詰めから赤い色に染められた北神立橋を目指して歩き始めた。 あれ? 違う。なぜか見下す眺めが違うのだ。 きちんと刈り込まれた築地松が、学校の朝礼で、気を付けの姿勢で並んでいる子供達の列のように見える。代掻きの終わった田んぼには、水が張られ、田植えを待っている。高い所から眺めているせいだろうか。平地で見るよりよけいに、農家の人の律儀さがうかがわれる。 数日前に強風を伴って降った雨が、小さな流れになって斐伊川を走っている。良い天気が続けば、水量は減り、川であることを忘れさせるのだが、今日はそうではない。一面に霞が立ち上っている。なんとも言いようのない程の幻想的な風景だ。ウォーキングをしていることを忘れて、私は立ち止まった。 遥か彼方に目をやると、集めた草を燃やすくよしの煙が真っ直ぐに立ち上がっている。風で壊れたトタン屋根の上に人がいるのは、修理をしているのだろうか。犬を連れた散歩の男性同士が、行き交うのが遠くに見える。おはよう、と声を掛け合ったようだ。 烏、鶏、牛、それに鴛の声が混じって、聞き覚えのない音も耳に入ってくる。斐川平野に暮らす鳥たちの鳴き声だろう。 私は休まずに歩く。 橋がどんどん近づいてだんだん大きくなってくる。足が弾む。昨年とおとどしと、四二、一九五キロを歩く斐川一周ウォークを完歩した時、残り七キロのこの道で足が思うように動かず、私は苦しんだ。最後まで歩きたい気持ちが消え入りそうになったこの道が、今日は別の顔だ。良さを分かって欲しいと言わんばかりに、いい眺めを展開する。 一周ウォークの経験で、この道は歩いても歩いても、橋に近づかない道だと思い込んでいた。自分で思う体力の限界がそう感じさせていたのだ。歩けば歩くほど、橋が大きくなる当たり前のことに気づいた私は、母の姿を見つけた子供にも似た気持ちになり、少し小走りに歩く。 同じ景色でも、ゆとりがある時は、数段良く見えると気づいたことで得意になっている。 背中に背負っているラジオが天気予報を言う。高気圧の影響で全国的に良い天気だ。中国地方は、雨の確率〇パーセント。 手が冷たくなった。大き目のトレーナーで手を隠して歩く。太くて柔らかなお寺の鐘の音が、朝の空に響き渡る。 六時のニュースが始まった。菅代表が年金未加入だ、と報道する。 「へー」 思わず声が出た。 四、五日前、自民党の未加入者が出た時だった。 「ふざけてますよね。未納三兄弟、もう一人二人出るかもしれない」 そう言っていた人から、どんなコメントが出るだろう。 行政の責任、という言葉で片付けられたニュースに気を取られていたら、遠かったはずの橋に着いていた。私の気持の中にある(嫌なコース)が削除されている。 折り返す。 帰りは景色に目を注ごうと、ニュースの声を小さくする。 ジョギングの人や、自転車の人に会うと意識して、おはようございます、と我ながら感じのいい声で言った。犬の散歩をする三十代の夫婦に会う。私の三十代にこのようなゆったりした朝はなかったな、と思いながら擦れ違う。 行く時と帰りは、同じ道でも反対になるので感じが異なる。トタン屋根が直っていた。 なにげなく土手に咲いている花達も、ちゃんと場所が決まっているのだろうか。上の方には、白つめ草、カラスのえんどう、あざみ。下の方は、野大根が白と黄で、斜面を飾っている。北海道のラベンダー畑に負けてはいない。 花達は、自然の摂理に従順だ。雨の多く降った翌日などは、勢いよく流れる水の中にもぐったままで姿が見えない。押し流されてもおかしくない日が年に何回かある。天気続きで乾ききっている日だってある。それに耐えて残ったもの達だろうか。強く生きている花達が、えらい人に思え、思わずカメラ付き携帯電話を取り出して撮る。 七時の時報に続き、岸恵子さん叙勲の知らせだ。(日暮れにさしかかったけど、人生はまだとっぷりと暮れていない)、という会見の言葉。ますますファンになり足を軽く運んでいると、車の待っている場所に着いた。 今朝は得をした。 日々の生活の中で、ニュースもところどころ聴いたり、周りの景色に目をとめることもなかった私にとって、久しぶりに幸せ気分の九十分であった 気持ちよくなるコースだった。ウォークにこんな道はふさわしくないと思っていた私が恥ずかしく思えた。 今年は止めた斐川一周ウォークだが、もう一度歩きたい気持ちに変わっていた。 |
◇作品を読んで
作者は、久し振りに斐伊川土手をウォーキングした。ところが、なぜかいつもとは違うのである。「歩いても歩いても橋に近づかない道」だと思っていたが、そうではなかった。「橋がどんどん近づいてだんだん大きくなってくる。足が弾む。」と、的確な言葉で、作者はそれを表現している。 良い気分で歩いた自分に、そして目の前に展開する斐伊川の風景に感動して、この作品を書いた。おそらく、一気に書いたのではないだろうか。そして、何度か読み直し、推敲し、書き直したのである。嬉しいという思いが、溢れている。 文学教室の場もそうだが、こうして新聞に載せ、多くの人に読んでもらうことは文章上達の一つの道である。なぜなら、読む人がいると思ってペンをとるのは、真剣に書くということにつながっているからだ。書いただけでは、書かなかったと同じことではないだろうか。 |