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随 筆
  唐変木               柳 楽 文 子

                        島根日日新聞 平成14年8月21日掲載

 台風が治まった、というのはこういうことかと思う静けさがきた。連休を利用して、娘夫婦と孫二人が、娘の主人の実家に遊びに行ったのだ。
 四人が出かけた後、孫たちの甲高い声が響く賑やかさが消えてしまい、広々とした空間に主人とただ二人となった。なぜか無性に寂しさが胸一杯に広がり、訳もなく切ない気持ちがこみ上げてきた。
 本当は、たまにはゆっくりしたいと思っていたのだから、喜んでいいはずである。だが、この静けさは、どうしたことなのだろうか。心の中に空洞ができたような思いがするのは、なぜなのだろう。私は、家の中をむやみやたらに歩き回った。
(そうだ。こういう時こそが、夫婦水入らずの時間だ)――そう思う私をよそに、目の不自由な主人はヘッドホンで熱心にラジオに聞き入っている。たまらなくなった私は、三日前に買って読んでいた曽野綾子氏のエッセイの内容を主人に話しかけようとした。
「ちょっと、曽野綾子の本だけど――」
「大相撲は、七月七日から始まるぞ。名古屋場所だ」
 全くとんちんかんな返事が返ってきたのである。ヘッドホンを外そうともしない。(この唐変木め!)――と、思いっきり蹴飛ばしてやりたかった。禿茶瓶というのは加藤茶をいれる茶瓶か、ならば唐変木って何だ。唐の時代に変な木があったのか。だったら、目の前の唐変木は、中国から来たのか、などとつまらぬことを考えた。よけいに苛立つ。
「私が必要としている時になによ。それでもアンタはパートナーと言えるのか!」
 勢いよくヘッドホンを取り上げ、散々文句を言った。
「……?」
 主人は、肩をすくめてシュンとした。
(ざまあみろ!)――私は、心の中で叫んだ。
 二人ぼっちの間でも、こんなに精神のリズムがちぐはぐである。世界中にいる無数の夫婦は、いったいどんな精神生活を送っているのだろう。夫の顔を見ながら、友達から聞いた話を思い出した。
 ――夫に「私の方を振り向いて」と、いくらサインを出しても気がつかない。たまりかねて「しばらく別居して冷静になりたい」と切り出したら、夫は「それもいいね」と答えた。私が欲しかったのは、いかにも分別くさい、というか理解のあるような態度ではなくて、「なにを莫迦なことを言っているんだ、お前が俺にはいちばん大事なんだ」という一言なのに。――
 男は単純だから、言葉そのものを正面から受け取る。女は、言葉がどう語られたということに耳を澄ますのだ。ちぐはぐさの決定的な理由はそこにある。
 それもこれも、男の鈍さに原因がある。男がもう少し敏感であったなら、夫婦のいざこざ、すれ違いもかなり片付くのではないか。
 鈍い夫の顔を見た。鈍さの理由はなんなのだろう。冷静になって考えた。それは、夫の育てられ方ではないか。子どもの頃から、「お前は長男だから」「あの子に負けるな」、もしくは、「我慢しろ」などと、耐えるように躾られてきたからではなかったか。
 あれこれ空想しているうちに時間が経ち、いつしか私の心も穏やかになってきた。すると、我が家の唐変木にもそれなりに、いい味があるのではないかと思えてきた。
 とはいえ夫婦である。愛し続けることが難しいのか、それとも信頼し続けることが難しいのか、どちらなのだろうという思いが、ふと胸の中をかすめた。永遠に答えは出ない気がした。おそらく両方とも、人間にとって、特に夫婦にとっては幸せな時間を持つための重要な条件の一つなのだろう。
 取りあえず私なりの結論を出して、自分を納得させる。ひとまず私の台風も治まった。

※講師評
 命名するという意味で使われるネーミングという言葉がある。特に広告分野で新製品に効果的な名前を付けることをいう。小説や随筆も同じで、うまいネーミングが決まれば、その作品は半分できたと言ってもよい。「唐変木」という題名からは、(これは一体何の話なのだ?)と、興味をそそられる。作者の感性が表れたタイトルである。
 書いてあることは諍いのように思えるが、実はそうではなく、夫婦の愛情とその狭間にある男と女の機微である。それをコミカルなタッチで描いた。短い文をつなぐことで歯切れがよくなった文体も内容によくマッチしている。書かれた内容によって、文体を工夫するという例である。                 (島根日日新聞客員文芸委員/古浦義己)