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随 筆 ルーツをたどる 
  
         園 山 多賀子   
                                                                                 島根日日新聞 平成16年3月31日掲載

 一畑電鉄川跡駅から、北山に向かった直線道路沿いに看護短大がある。その大学の学生が二名ずつ、近隣の各戸を定期的に訪問することになっていて、私の家にも学生が訪れる。
 特に定められたテーマはないらしいが、二時間くらい、お茶とお菓子で雑談をして帰る。下宿をしたり寮に入っている学生もあり、家庭の温かい雰囲気に触れる交流も意義のあることだ。私は興味もあるのだが、老人の出番でもないと思い、面談に応じたことはない。
 この間は、話題も尽きたのか、二人の学生を息子が裏山の墓地へ案内したらしい。お墓と言えば鬱陶しいが、私の家の墓地は裏山を五十メートルほど登った位置にあり、眺望は最高なのだ。一望する簸川平野に点在する築地松は、まさに出雲路のシンボルと言える。見晴るかす南の山脈は、東は仏教山から西は三瓶に連なり、言い古された言葉だが一幅の絵そのものである。
二人の学生は、裏山に登って口々に驚きの声を上げ、ファンタジーをそそられたらしい。息子の機転をちょっと見直したことである。
 亡夫の没後の事だった。墓地へ行くために山を登るのは大変だから、家の周辺近くに移したら、と家族は言った。だが、孫が眺めのいい現在の所が最高だと主張し、否を繰り返した。結局、元のままで総廟にする事に決めたのだ。
 その際に全部の墓を掘り上げた。更に、一隅にあった「大乗妙典」という墓も掘ったのである。それは、四代の熊市のもので、明治十九年八月に建立されていた。
 掘ってみて驚いた事に、「ここ掘れ、ワンワン」ではないが、大判小判ならぬお経文字を一字ずつ書いた直径二センチくらいの小粒の石がぞろぞろ出て来たのだ。何かあるということは、亡父などから聞き伝えていたが、目の当たりにして驚いた。
 石は全部を洗ってビニール袋に詰め、総廟の脇に安置した。石に書かれた経文は殆ど消えていた。小石は、灘石かと思われるような滑らかなものである。集めるのに、大変だったろうと思われた。これだけの作業は、相当な根気と信念がなけねば出来ることではない。子孫の繁栄を祈る願いを思い、感激したのである。
 同じ墓地に、延命地蔵様の小さなお堂がある。石仏であり、夜や冬には寒いだろうと私が帽子を作って被せてあげたことがあったが、そのままになっている。お堂も先祖からのものだが、いつであったか父が家の周辺の公孫樹の木を伐って再建したと聞いた。近所の子供が病気回復の願掛けをして助かったという話も聞いている。今も、秋の彼岸には、必ずお祭りをする。
 園山家は現在、息子で七代である。本家は「勝武」という屋号を持ち、五軒の分家を分けられたものである。それぞれに田畑、山林も分け、家を建てて分家をするということは、大変な投資だったと思う。余程の資産家だったと思える。
 先祖の穂左衛門は末っ子で、寵愛は殊の外であったようだ。分家と同時に、今の墓地辺りに隠居部屋を建て、食事などは綱を張り、綱渡りで運んだとか、いかにも長閑な生活だったらしい。夢物語のようである。
 こうした本家との繋がりもまた深いものがあり、その昔は、毎月初め一日の礼として、畑に出来た初物は必ず持参して本家にご機嫌を伺いに行ったという。
 そのうち、時代は移り、本家は東京に居を転じて企業を興された。後に残った門座敷は戦時中に疎開の宿となるなどして、今は地区の集会所になっている。
 私が嫁いで来た頃は、まだお盆には皆が集まって墓掃除などもした。そんな昔語りを孫達は知る由もない。
 過去を語り、ルーツをたどる。老人の運命かもれない。人は有為転変、移りいくとも御影石の墓は苔むしても朽ちることはない。
 十月頃、この墓道は黄色い石蕗の花で覆われる。父の好んだ石蕗の花は、永久に墓道を飾ってくれるだろう。
 毎日の墓参りは、私の欠かせない日課である。

◇作品を読んで

 三月二十八日、出雲市の中央を流れる高瀬川通りに「文芸の小径」が出来た。出雲の文人の事跡などが刻まれた五つの碑が、ほどよい距離をおいて建てられている。文学の散歩道であり、そして、後の世に残す大きな記録とも言える。
 作者が抱えているテーマは、いつかは消えるのではないかと思える風物や行事などの記録である。そのことを繰り言とか戯れ言などと語るが、そうではなく、遺産継承である。なぜなら、そのことを知る人はその人だけだからだ。
 大正元年八月生まれの作者は、この二年間で八十にも及ぶ作品を書き続けてきた。単純に計算しても、約四百枚の原稿である。まさに自分史と言ってもよい。得意とする川柳も含めて、精力的な執筆活動が作者の生き甲斐を支えているように思える。