TOPページにもどる   ウエブ青藍トップにもどる

随 筆 盗 作 
  
         原  陽 子   
                                                                                 島根日日新聞 平成16年3月24日掲載

 開け放たれた窓から、桜の花びらが舞い込んで来そうな、ほんわかと暖かな教室。
 小学一年生になって初めての図画の時間である。机の上に配られた画用紙を、真っ直ぐに置き直した私は、真新しい箱の中から迷うこともなく、一本のクレヨンを抜き出した。紙面のかなり上の方に、左から右へと一本の線を引く。更にその下を、手首を左右に大きく振りながら丁寧に塗りつぶしていった。宍道湖の湖面の出来上がりだ。線と線の間の隙間が、ちょうど小波のような効果を出している。
 次に黒いクレヨンを取ると、折り紙で折ったようにシンプルな小舟を、五艘ほど浮かべた。水平線の上には、なだらかな山の連なりを、濃い青の曲線でうねらせる。中国山脈だ。
 仕上げは、東の山の谷間から、今、まさに昇ろうとする朝日だ。(足りない。)余白がなくて描けないのだ。幼い私の心には、宍道湖があまりに広々としていたので、大きく取りすぎてしまったようだ。あきらめて、あたまの先のない太陽をのぞかせる。(さて光線はどうしょう)その時、閃いたものがあった。厚く覆った雲の切れ間から射し込む、あの天使でも舞い降りて来そうな幻想的な光の帯である。
 実際には、あのように美しいものを表現できるはずもなく、青い山の上に、幾すじもの赤い線を下に向かって、ただ走らせただけだったのだが……。
 描き終えて友達の絵をそっと見る。花や蝶々、男の子や女の子が遊んでいるところが描いてある。私だけ雰囲気がちょっと違う。さっきまでは、自信満々だったのに、少し不安になった。みんなの絵を見て回っていた女の先生が私の横で止まる。見上げると、目がにこっと笑っている。ほっと安堵した。
 大きな五重丸をもらった作品を手に、家に帰ると、母のところへ跳んで行って見せた。畑仕事をしている木戸の坂道の途中である。
 一瞬の沈黙の後、母はさもおかしそうに、ころころと笑い出した。
「それで先生は、どげ言われた?」
「すてきだねえ、といったよ」
 先生が本当は何と思ったかなど、そんなことはどうでもよかった。私はもらった五重丸のうれしさに、最高のごきげんで、母の周りをスキップした。
 五十年も昔のことである。それがいまだに忘れられないのには理由がある。私が描いた朝の宍道湖の風景画は、実は母の絵の物まねだったのである。朝日が大空に向かっていっぱいに輝いていたのは、もちろんのことだが……。
 どんな意図があったのかは知らない。入学を前にしたある日、お絵描き遊びをしている私に、そんな絵を描いて見せてくれたのだ。私のとは違って、母の絵は美しかった。感動したのである。教室で、机の上の画用紙を目の前にしたとき、私にはあの絵しか思い浮かばなかった。しかし、似て非なるものに仕上がってしまったことの顛末を察し、母はあんなに笑ったのであろう。
 母は宍道湖には特別な思いを抱いている。家は宍道湖を南に見下ろす高台に建っており、庭や縁側から、いつでもその移ろいを眺めることができた。父母は家の近くのわずかばかりの畑を耕し、また、自分達の船を持ち、宍道湖の漁をするという、半農半漁で生計をたてていた。四季を通じて、毎日のように朝夕の漁に出かけていたので、宍道湖は生活の場そのものであった。
 宍道湖は美しい。春夏秋冬、晴れた日はもちろん、雨も雪も曇り日も、波高き日もそれぞれに趣きがあってみんな好きだ。だが、特に、晴れた日の早朝、湖の上で見る日の出の一瞬は、母にとって格別だったに違いない。一度、絵にしてみたいと思っていたとしても、不思議ではない。クレヨンで遊んでいる娘を見て、突然その想いが噴き出しただけのことだったのかもしれない。
 八十四歳になった母は、今も元気にあの家で暮らし、畑を耕している。
 あの日のことを、私が覚えているように記憶しているのだろうか。
 今度、実家に帰ったら、聞いてみたいと思う。もろもろのことを。

◇作品を読んで

 小学校に初めて入った一年生には、その日その日が新鮮であり、今まで見たこともない時間割を眺めながら、次はどんなことが始まるのだろうという期待でいっぱいに違いない。
 作者は、自分が幼かった頃の図工の時間のことを思い出し、その時の気持ちを丁寧に書いている。読者は読みながら、おそらく自分が小学校一年生であった時のことを思い出すに違いない。作品は、学校の思い出から一転、美しく情感豊かに書かれた両親や生まれ育った家の情景に行き着く。
 作者は、春が近い日に実家を訪ね、宍道湖を眺めながら、ゆっくりとあの日のことを話すに違いない。もうすぐ四月。新一年生が胸いっぱいの夢を持って学校の門をくぐり、思い出に残る物語が生まれる。