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随 筆 どうしているのかな? 
  幸せかな?

         
山 本 英 子   
                                                                                 島根日日新聞 平成16年3月3日掲載

 もう四時間も泣き続けている。
 あの小さい体で、長い間、精一杯の声を張り上げて泣いている。
 空港の広い待合室にいる人達は、その声にうんざりし、そして疲れていた。
 待合室は、暑すぎるくらいに暖房がきいている。
 生まれて一カ月か、あるいは、二カ月ばかりの女の赤ちゃんだ。ピンクの毛糸の帽子をかぶっている。私が最初に見た時も、やはりピンクの手袋がはめてあったような気がする。 
 母親は、二十四、五才に見える。すらりとした美人だ。だが、母親としては、新米のようだ。
 ぎゃーぎゃーと泣いている赤ん坊に、ミルクを飲ませながら焦っている。
 ミルクを飲ませても、白湯のようなものを飲ませても、全く泣き止まない。周りにいるおばさん達が、変わりばんに抱っこをしてやるのだが、それでも泣き止まない。
 病気ではなさそうだ。
 生まれて初めての外出と、待合室の暑苦しさで興奮して泣き続けているのだと私は思った。小さいながらも、もの凄いエネルギーである。
 おばさん達の会話から、彼女は中国人だと分かった。
 上海空港である。私たちにとっては、Y旅行主催の「西安・北京・上海五日間の旅」というツアーの最終日となっていた。上海発広島空港行きの飛行機に乗るのだ。
 あろうことか、飛行機の出発がもう四時間も遅れている。
 情報によると、私たちの乗る中国西北航空の飛行機は、始発の空港にまだいるというのである。整備に予定以上の時間がかかっているそうだ。
 昼食には、機内食が待合室で配られた。しかも、同じようなものを夜行列車でも食べたが、ご飯とおかずが大雑把に詰め込んである弁当だ。食欲はわかない。それぞれの弁当の上には、緑色のりんごが一個ずつ乗せてある。日本ならば、絶対に規格外と思われるひしゃげた、色の悪いりんごだ。
 赤ん坊は、やっぱり泣いていた。ぎゃーぎゃーとだ。
 穏やかに、ぐずぐず泣くのではない。小さな体で、精一杯泣いている。
 母親は、この四時間ですっかりやつれてしまった。美人も台無しだ。気の毒だ。
 やっと、午後三時頃になって乗り込んだ飛行機は、往路と違ってジャンボジェットだった。ほとんど満員の乗客の中で、母親と赤ん坊は機内の中ほどにいた。機体の後方へ歩いて行くと、泣き声が聞こえたので分かったのだ。
 飛行機に乗ってからも、ずっと泣いているらしい。他の乗客が噂をしている声も聞こえた。
 二時間ばかりのフライトを終え、夜の八時、やっと広島空港に着いた。
 母親が、初めて笑った。
 ご主人と姑らしい人が、出迎えに来ていたのだ。
 抱いていた赤ん坊を渡し、ほっとしていた。自分のことのように、私もほっとした。そして、胸がいっぱいになった。
「彼女は、偉かったよ。頑張ったよ。この次の里帰りの時には、上海空港まで迎えに来てね」
 ご主人に、私はこう言いたい。

 旅行が終わってから、旬日が過ぎた。
 旅の日々の出来事と念願の天安門広場に立てた感慨もあるが、私はなぜか、あの親子の見せてくれた情景が気になるのである。

◇作品を読んで

 書く、ということをいつも念頭においている人にとって、旅は刺激的である。なぜなら、どこに行っても新鮮な驚きがあるからである。驚き、感動を求めないならば、旅に出る意味がない。
 作者は、中国五日間の旅に出た。おそらくその百二十時間の間に、いろいろな出来事に出会われたと思うが、その中で、どうしても書きたかったことをこの作品にした。
 いつまで経っても飛び立たない、ゆったりとした時間の流れのなかにある中国の航空機を待つ間に、泣きわめく赤ん坊と困惑する親、作者に言わせれば「新米」の母親の姿が特に印象に残ったのである。
 この作品は、空港、そして飛行機の中のいわば寸描である。作者は、新米の母と一緒になって心配している。その気持ちがよく表れている。なぜなら素直に、ごく普通の文章で感じたままを書いているからである。その作者の思いが、作品のタイトルに示されている。
 短い文章でよいが、心の琴線に触れたことをいつも書くようにすることが大事ではないかと思う。文章を書くことが好きになる一つの方法でもある。