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随 筆 幻となった扇
         
大 崎 里 利   
                                                                                 島根日日新聞 平成15年12月3日掲載

 仏壇の引き出しの中から、古い扇が出てきた。十本骨の白扇で、要の部分はばらばらになり輪ゴムで束ねてあった。広げると、破れて剥がれたところは無造作に貼ってあり、辛うじて判読できる箇所もある。折り山の端々は擦り切れている。
 悦、長、喜、とあり、その下に五拾五年夫婦と書かれている。裏には、次のようにある。
 明治二十九年より
一、田畑一町歩以上耕作
二、牛飼育五十五年
三、養蚕五十年
四、瓶袋作り三十八年
五、煙草耕作十三年
養子善太郎入籍後
 役場に勤務三十八年
孫明夫学校卒業後
 米穀検査員勤務
勤務中互いに健在
一貫して人を敬い
真実をつくした 茲に
一代の耕作飼育を記す
 昭和二十六年
   大崎 甲之助
 書き残した大崎甲之助は夫の祖父で、当時の人としてはちょっと大柄でふくよかな体つきだった。顔は地蔵様のような笑みを含み、柔和な人であった。
 指を折ってみると、七十二歳の時に書かれたものである。
 筆跡は決して達筆とは言えないが、穏和な人柄が偲ばれ、優しさと温かさが伝わってくる。
 養子善太郎とは夫の父で小柄であったが、実直な人で、村役場の助役をしたり、戦時中は招かれて小さい漁村の村長をしていた。
 終戦後は、民主化政策の一つとしてGHQの覚書による公職追放の憂き目に会い、年金が途絶えたと嘆いていた。その後は合併して出雲市になるまで、村会議員の職に在った。
 孫の明夫は夫の長兄であり、次兄は南方の海で爆撃に会い、火の海を泳いで大火傷を負って戦病死と伝えられた。
 夫は三男であったため、後継者の居なかった本家へ入家したのだ。
 この扇は、夫の実家の記録である。
 明治二十九年は、甲之助が家督を継いだ時であろうか。五拾五年夫婦とは、半端に思えるが、祖母はその頃肝臓癌で余命幾ばくもなかったと聞いている。
――田畑一町歩以上耕作
 当時、一町歩の田を耕作している農家は、かなり裕福な方で、とは言っても今の豊かさとは雲泥の差があり、家族で共に働き、鍬、犁だけの重労働で支えられていた。
 実父は公職の合間をみて、湿田の高畦作りをしていた。ひと塊の土を鍬の上に乗せて積み上げる作業で、低い身の丈で懸命にやっていた姿が脳裡から離れない。
――牛飼育五十五年
 母屋と向かい合わせの納屋に黒牛がいた。農繁期の重要な担い手として、当時はどこの農家にも一頭は飼われていた。庭には牛を繋ぐための木が植えられ、確か柿の木であったと思う。今はもうどこにも、その光景は見られない。
――養蚕五十年
 蚕さんは、主に春蚕、夏蚕、秋蚕とあり、上蔟して繭を造らせるための蔟に入れるまで、大体二十日から三十日かかった。その間に、四回の脱皮をする。湿度の調節など、その気配りは大変であったらしい。当時の蚕室は座敷であり、まるで客扱いのようだった。鴨居の両端に丸く刳られた跡があるのは、蚕座を組むためのもので、夜はきっと蚕が桑の葉を食む音が、安らかな子守歌として眠りをもたらしていたのだろう。
――瓶袋作り三十八年
 瓶袋というのは、一握りの麦藁を一方の先端で結び、一升瓶に被せて保護する袋状になったもので、微かな見覚えがある。
――煙草耕作十三年
 これも副業の一つとして、畑で栽培されていた。土蔵造りの乾燥場を共同で建て、交代で木を焼べて温度調節をしながら煙草の葉を縄に吊し、幾筋にも並べて乾燥させる。黄金色になった葉は、一枚一枚拡げて分別し、等級が付けられていた。気の長い作業で、雇い人をしたり、家族総ぐるみの作業であった。
 晩年の甲之助は、終日納屋の二階を仕事場にし、こつこつと草履作りや縄を綯ったり、筵や俵作りといった手先の作業を器用にこなしていた。時には、竹細工の品物を作ってもらったり、補修をしてもらったりしたものだ。食事時には階段の下から上を仰いで呼ぶと、膝の縄ごみなどをポンポンとはたいて、梯子段を用心深く一足ずつ降りてくる姿は忘れられない。
 昭和四十九年の三月に善太郎八十歳、十一月に甲之助九十三歳で共に他界した。
 その後、明夫も定年退職し、跡を継ぐ男子の住居にと、納屋の隣りに音楽好きの子を思い、二階造りで防音の部屋もある離れ家を建てた。しかし、期待していたその子は入居することなく他家へ養子に行き、姓も改めてしまった。
 それからが大崎家の躓きの始まりであった。「長男を取られた」と言っては酒に溺れる日が多くなり、六十一年の四月、七十歳を前に肺癌で亡くなった。
 跡は嫁していた二女が継ぐことになったが、跡継ぎの重みの意識はあまりなかった。
 加えるに時代の変遷とでも言えようか、稲作などの農業の状況もすっかり様変わりしてしまい、価値判断の意識の変革で田圃は次々と埋め立てられ、公共施設もどんどん誘致された。税制の有利を生かし、売却する家が続出した。
 それに洩れず、大崎家も長い間に培われた先祖伝来の財産は、目の前の欲望のため、四、五年の間に、あれよあれよという内に皆無となってしまった。その早さには、言葉も出なかったほどである。
 まず、母屋が立派に建て直された。それだけに留まらず、内部の改装、車庫の跡には重ねて若夫婦の住む近代的な白亜の二階建てが建てられた。
 明夫の妻である義姉は二年前に脳梗塞で倒れ、半身不随で言葉も発せられなくなり、施設暮らしである。人としての幸せは無くなってしまった。発病したのは、思い煩うことなく楽になりたかったからではないだろうか。哀れと言うほかない。
 こうして全て幻となった扇は、夫の亡くなった今、私がしっかりと受け止め、後世に語り継がれるよう表装して額に納め、在りし世の大崎家の努力を偲ぶ証しとして大切に保管しておきたいと考えている。
 そうすることで、大崎家の仏の無念さを少しでも晴らせるよすがになればと思うのである。

講師評

 仏壇の引き出しを整理していて、白扇を発見した。古いものだった。かなり傷んでいる。手荒には扱えないが、何だろうと静かに広げてみる。昭和二十六年に書かれたとある。読んでみると、我が家につながる記録であった。
 幾つかの項目の一つ一つから、作者は見聞きしてきたことの記憶をたどり、作品に仕上げた。
 この作品は原稿用紙約七枚の短いものだが、この背後には膨大な物語があるように思える。その家の、あるいは自分史として書き残せば、単に個人的な回想録だけではなく、ある意味の社会史にもなりそうである。
 前回の「祭りの日」という作品もそうだが、こうした記録が活字になって残るということは意義のあることと言えるのではないだろうか。