随 筆 出雲の民、人
森 マ コ
島根日日新聞 平成15年11月19日掲載
先日、立て続けに歌舞伎と能を見た。 私の体は笑っていた。興奮のためもあるが、出雲人の空気が体を振るわせたのである。出雲の人々は、奥ゆかしい。なぜ奥ゆかしさが、私の体を震わせるのか! 人は興奮すると目を見開き、体を赤く熱くさせるものなのに、出雲の民はそれを良しとせず、クールに振る舞うのである。アーミッシュと同じ! そして、私もアーミッシュ出雲民であったのだ。 私は二つの舞台を観るために、一週間もかけて体を調整し、着て行く服を決め、美容院で髪を整え、マニキュアを塗り、家のカギを閉めた時には、美しいと誰もが振り向くだろうと思うほど決めていた。なんのことはない自己満足である。だが、出雲の民は自己満足こそ美であるとする。常に人に笑われないようにと思う自己満足のかたまりの美しい私は、会場で異様な空気に出会った。 グレー一色! グレー一色なのである。以前、この雰囲気を感じたのは、出雲市内にある高名な眼科医院であった。待合室に入ったとたんに、お歳を召した方々が、ぎっしりと座っておられるのが目に入った。その服は、茶、黒、グレー。あら、若い人が……と思うと、これまた紺の制服を着た高校生だった。その時、一瞬だが、私の目は赤を失ったのではないかと思った。 歌舞伎の会場の雰囲気が、眼科の空気と一緒だったのだ。気持ちを落ち着けて、周りを見回す。目を凝らすと、やはり色はグレーであるのに変わりはないのだが、着物を召したご婦人、高価そうな宝飾品を付けた方、見るからに手入れの行き届いた肌をしている美しい方々が、黙って前を向き、静かに、そして密やかに開幕を待っておられるのが見える。男性は、蝶ネクタイとまではいかないが、いい服地のブレザー(背広と言い換えた方がいいかなあ)で決めていらっしゃる。 あの人は何をしている人かなあ、あっ、あの人は農業かな、などと職業を想像してしまっている。 高いお金を払って舞台を観に来ているのだが、さて、どんな舞台になるかと思わずにはいられない。 幕が開いても、グレーの波は変わらない。まるで観客というよりは、卒業式のようだ。みな一様に背すじを伸ばし、声も拍手もない。役者が見えを切っても、シーンとした静けさである。その中で事故が起こった。 むらくも座のみな様、アマチュアといえども、あなた方の役者としての技術は素晴らしいと思っています……が、梯子から落ちるようなことは、人に見せてはいけません。 ヒヤッとした。座長! 大きなケガでなければいいがと心配させるような事故であった。しかし、観客は相変わらず静かである。これが広島であったら、東京であったなら、やはりこんなふうだろか。出雲の民は奥ゆかしい。 大社の町に入ると、吉兆館の所に大きな大きなレリーフがある。大社さんに参ると、参道に大国様の像がある。力強くたくましく、大きくて美しい。白うさぎさえ、なんだか強く見えてくる。出雲民の中での大国さんは、この像のように強く荘厳であるに違いない。でも、本当はどうであったろうか。出雲の国、自分の土地を守り、自分のための民をどう育てようかと、小さな体で知恵をしぼり、人々と共に働いた勇敢な神だと私は思っている。神になるとイメージが大きくなるものだが、いろんな体格があってこそ神さんの神さんたるところではないだろうか。大きな袋を肩に掛け――の歌にある袋ではなく、普通の袋なのだが、大国さんが小さい男だったとすれば袋が大きく見えたのかもしれない。 したたまる≠ニいう表現が出雲にはあるが、出雲の民は奥ゆかしいというよりは、したたまった人々≠ニ言い換えた方がいいのではないかしら。 森英恵の世界に観入った出雲大社奉納能の時は、もっと体がうなるような連続だった。観る人のしたたまった様子に、体がうなったのである。出雲人、まして能など見るチャンスがない私もだが、係員に逆らう人は一人もなく、礼儀正しく指示通り、静かに美しく行動していた。暗かったし、足元も危なくなる様な高齢の方が多かったので、なおさらそう感じた私であるが、見終わってからも皆楚々として帰るのである。残った人は、出雲市長、森英恵さんだけである。神楽殿に二人が残るのである。森さんと言えば、オートクチュール世界のトップである。スターなのに、だあれも森さんを取り囲む出雲人はいない。みーんな、楚々として帰る。係員に従って! 私は帰る? 帰るはずがない。大社町の役場の友人にしっかりと断ってから、森さんのそばに楚々と近づき、挨拶をした。握手もしてもらった。自分の日常のことを話した。そして、明るく楽しく生きるエネルギーをもらった。森さんと握手をしたことによって、世界が別のものに躍ってしまった。きっとそんな私を見て、したたまった出雲の人たちは、後日、茶飲み話で、あれは誰だっただらかな? などと語られるかもしれないぞ。私、ぜーんぜん気にしない! 電話が掛かってきた。母の里からである。お茶会で、森さんと話していた人がマコさんだったという話である。ほうらね。みーんな森さんと話したかったのじゃない。みーんな見てるじゃない。 「お母さんも、あの時、森さんに握手してもらえばよかったに」 「マコ! 市長さんに背を向けて話をするもんじゃないよ。せめて下座の方から話しかけなさい。恥ずかしい!」 お叱りの電話であった。出雲の民である母からの電話であった。 世界のトップデザイナー森さんは、威圧的な人かと思った。が、出雲人を愛する人であった。優しい話し方といい、私の話す顔をゆっくりと見て、私を美しくさせてくれるような、話聞き上手な人であった。 したたまった出雲人であった。ああ、幸せ、幸せ。 |
講師評
ある書店の書籍検索ホームページで「県民性」をキーワードにして探すと、「県民性の人間学」、「県民性の謎がわかる本」などという十冊の書名が出る。県によって、気質や考え方などに地域差があるというのが、これらの書籍の内容である。 出雲部の人は、暗く内向的で非社交的だが、堅実で真面目である、となっている。石見の人になると、その逆だそうだ。 作者は、その出雲の民の特徴を歌舞伎の会場から敏感に感じ取り、それを素材にした。ユーモアを交えた上手い構成と表現で書き記されている。軽妙な語り口が、それを助けているのだろう。 文章の調子には、いろいろな形がある。冷徹、真面目、くだけた調子など、書き手や内容によって違ってくる。文章が上手い人は、内容や対象がどういう読み手かによって、書き分けているのではないだろうか。 |