TOPページにもどる   ウエブ青藍トップにもどる

随 筆 活字中毒
         
山 根 芙美子   
                                                                                 島根日日新聞 平成15年10月15日掲載

 季刊山陰第一号に、武田書店の古い店舗の写真が載っている。
 三、四歳の頃までごく近所に住んでいた私は、小銭を握っては本屋へ行き、高価な本を抱えて帰ってくるので、店員さんが付いて来たり、母が謝りに行ったり、払ったりしたものだと後に聞かされた。
 伯母が、「この子は、本さえ持たせておけば行儀がいい」と、よく人に言っていた。
 小学校へ行くようになると、登校は急ぎ足、帰りはゆっくり歩き読みであった。
 途中に製材所があり、よく台車を付けた馬が止まっていた。ある時、気が付くと目の前に馬の脚がある。驚いて顔を上げると、私の頭が馬の顎に当たった。後ろからなら蹴られるところだった、と馬方に一喝され、それ以後、歩き読みは止めた。
 その頃、隣へ農事試験場の場長さんの一家が入られた。母に付いて行くと、玄関の次の間に大きな書架があり、世界文学全集がずらりと並んでいた。宝の山を前にして動かないものだから、母は先に帰るし、そのうちに日も暮れてしまった。とうとう持って帰って読んでもいいと言われて、嬉しかったことをいまでも覚えている。
 宝島・ロビンソン漂流記にはじまり、三銃士・二都物語・椿姫・モンテクリスト伯・家無き子・女の一生。
 弟たちの手の届かないタンスの上を置き場所に、寝食を忘れた。遅くまで電気を点けていると、消さずに寝込んだり、寝坊、遅刻の常習犯であった。電灯のコードを伸ばして布団の中へ持ち込んだり、囲って明かりが漏れないようにした。見つかると叱られるのも当然で、成績は最低路線をさまよっていた。
 友人が兄の本だと言って、内緒で貸してくれたのは、紅葉・蘆花・秋声・鏡花であった。
 華麗な織物を見る様な言葉の綾に魅了され、しばらくは鏡花にのめり込んでいた。女学校には図書室があり、緋文字・主よ何処へ行く・レベッカなどをぼんやり読んでいた。町に図書館もできた。ポーやドイル。小さな悩みなど雲散霧消である。
 時々は、何も無いことがある。そんなときは、それこそ鯖を包んだり、泥葱を巻いていた古新聞も結構な緩和剤になる。
 昔の親は「働かざるもの食うべからず」的な叱り方をする。そんな時は、押入の奥にある主婦の友などを探し出して、料理欄まで読んだ。そうすると、面白いことに食べた気分になった。働き者の両親は、ほとほと手を焼いただろうと思う。
 いつか、四方に書架のある部屋を持つことが夢であったが、実際にはちまちまと文庫本があるに過ぎない。数が増えると、ひそかに処分したりする。読んで堪能するものが少ないのは、自分の年齢のせいかもしれない。
 目も悪いというのに、家族に笑われながら、買い物もしない商品の広告まで読みかじっているのは、薬の効かない中毒のせいだ。

講師評

 少し前だが、私の古い友人から、家を新築して転居したという葉書をもらった。それには写真がプリントされていた。十畳ばかりか、吹き抜けの部屋の四面と中央には書棚があり、高いところは四メートルもある書庫の写真だった。長い梯子をかけねば手が届かないという贅沢な悩みも書かれていた。本好きな者ならば、欲しいと思う部屋である。
 この作品には、幼い頃から本が好きだったというエピソードが幾つも語られている。作者も書架に囲まれた部屋で、本を読む自分の姿を夢見た。実現はしなかったようだが、それは作品を書くということに結実しているのではないかと思う。
 本を読むことは、考える力の涵養につながっている。知識を得るためでもあるが、書き手の思考を辿り直すことであり、考えるための基礎訓練でもあるからだ。
 義務教育学校では、朝の読書タイム、十分間読書などという試みが盛んである。子どもの読書力の差は、環境に関係があると学校の先生方は言う。家庭ならば、親自身が本を読むかどうか、小さい頃から読み聞かせをしているかで、その後の読書に対する子どもの姿勢が違うのだろう。
 この作品は、そんなことまで思わせてくれる。こういう中毒なら、大歓迎である。