随 筆 走馬燈の人
園 山 多賀子
島根日日新聞 平成15年10月1日掲載
今年の「おろち祭り」の夜には、花火大会があった。打ち揚げ場所が斐伊川沿いの河川敷公園で、私の家から観るのには最高の場所である。そのこともあって、孫達一家総出の花火見物ということになった。 改築した離れの部屋は絶好の場所だ。電柱が一本、邪魔をするけれど、連発の花火が空を焦がして壮観だ。曾孫達は歓声を上げながらのジュース、大人達はビールで乾杯。九時頃であったか、余韻を残して花火大会は幕を閉じた。 孫達も帰り、床に就いたが興奮が覚めやらず眠れそうにもない。子供の頃の祭りを思い出した。 天神様の祭が一学期の終わりに行われた。夜には花火が揚がった。生徒達は円単位以下だったと思うが、若干のお金を出した。花火は幼稚で数発しか揚がらなかったが、一年中で楽しみな行事の一つであった。 のうぜんかずらの花が匂っている。氷水屋、小さな屋台店、当てものなどがあった。桃売りの店も出た。戸板の上に桃を並べ、鉢巻をした小父さんが、「さあさあ、桃は要りませんか。安くて甘い桃だよ!」と大声を上げていた。脇には一升瓶が置いてあり、それを飲みながら囃し立てている。なぜか毎年同じ場所だった。 草原では田舎廻りの芝居が舞台を作って人を集めた。何も娯楽のない村では、その興行が待たれた。草の上に敷物が敷いてあるだけで、雨が降れば中止になる。夜の草いきれの中で、思い思いの席を取るのだった。 そんな時のことだった。ふっと横を見ると、同級生の順一君がいた。瞳が合い、彼は手を挙げた。すかさず私も応えた。教室では隣り合わせの席である。無口で、先に立って発言することもしない。男の子としては、控え目だった。いつも隣り合わせのよしみで、私が何かとカバーした。その頃から、私はお節介に出来ていたかもしれない。 少し離れた場所にトイレがあったことを知って、幕あいに独りで御用に立った。用を済ませて外に出た。近づいて来る人影がある。いきなり手を握られた。はっとして見ると、順一君だった。驚き、手を振り払った。(こんな所で、どうして……)と言いかけたが、彼は無言のままだったので私も黙ってしまった。北の空には北斗七星が輝き、十三夜の月。十代の戯れを見透かされているようだった。「もう始まるよ、早く戻らなきゃ」と、何もなかったように彼を促し、元の席に戻る。何気なさを装ってはいるが、不意なことだったので私の小さな胸は騒いだ。後の芝居は上の空だった。 二学期になって、また隣り合わせの授業が始まった。彼は表面は平静だったが……。 数十年経った。同窓会が幾度か計画されたが、順一君は一度も顔を見せたことはなかった。だんだんと皆から存在を忘れられてもやむを得なかった。 国語の教員である主人と結ばれ、昭和十二年から十八年までの満州暮らしの後に内地へ帰った。大東亜戦争の最中である。物資不足に耐えた時代であった。 ある日、畑で野菜作りに汗を流していると、男の人が、ふっと自転車から降りて目の前に立っていた。道を尋ねる人かな、と手を休めてよく見ると幼な顔の残る順一君ではないか。驚いた。幻とも思われる程に遠い人だった。 彼は僅か一キロ位離れた隣の村に住んでいるという。同じ北山の麓である。鳶巣に私が居ることも知っていたらしい。何用で出向いたのか知らないが、偶然の出会いだった。 道路側の桜の木陰に座り込んだ。遠い昔の思い出が、走馬燈のように駆け巡る。 「食糧(米)に困っていませんか」 彼は農業をしているので、食糧には事欠かないのだとも言う。私の家は、農地が委託で、生産者程には米が入らない。そんな事情も察知しているような口吻だった。融通してもいいという気持ちがあるように思えた。涙が出る程嬉しかった。 「ありがとう。何とか間に合っています」 弱音は吐きたくない。まだプライドがあったのだ。 その後、会う機会はなかった。 いつ頃、逝くなったのか。同窓会でも噂に上がらないままだ。その同窓会も、もう集まる程の人数もなく、立ち消えになっている。皆、人知れず逝ってしまうのだ。 走馬燈は、いつまで回り続けるのだろう……。 |
講師評
原文は八枚近いものだった。おろち祭りと花火、花火から連想した曼珠沙華、その花が咲く堤の想い出、堤の下の草原であった田舎芝居、そこで偶然に出会った同級生順一君との幼いロマンスと数十年後の出会いが書かれていた。一つの出来事が連想を呼び、作者はその思いを書いた。それを原稿用紙四枚半という制限を設け、整理されたのがこの作品である。 誰でも長い年月を過ごして来ているから、書こうとする素材はいくらでもある。となると勢い全て言いたくなる。そうすると、何を言いたいのか読む方は分からなくなることが多い。削りに削ると、言いたいことは何かがはっきりし、主題が鮮やかに浮き上がる。書きたいことは欲張らない方がよいのである。 |