随 筆 子供時代の風景
長谷川 啓
島根日日新聞 平成15年9月3日掲載
終戦直後の昭和二十二年、私は小学四年生でした。 学校から帰るとカバンを放り投げ、山の方にある畑に行き、桑の実を勝手に取って食べ、唇を紫色に染めたりしたものです。川いちじくやら山桃の高い木に登って枝を手でたぐり寄せ、実を取って食べながら、大げさに言えば下界を眺めるのは、いい気分でした。 家の裏のすぐが日本海で、四季の海と共に過ごしました。今のようにテトラポットもなく、波止場もちっぽけなものでした。台風がやって来ると、家並みに沿って造られた石垣は、暴風雨を伴う高波にとっては問題ではなかったのです。石垣を越え轟々たる勢いで路地になだれ込み、更には本通りまで勢いよく走るのです。物心がついて初めて見た時には、波の凄さを感じました。 海岸線には、素晴らしい砂利浜が続いていました。野球の試合が、同時に何組か出来るくらいの広さがあり、思う存分駆けずり回ったものです。 腹をすかして家に帰り、母親に(なんぞいいもん)と言って手を出します。 「このバカが。そげな菓子なんか、あーせんが。メシなと食えや」 必ず叱られました。菓子は、お客のために出すためのものだったのです。そんな日が来る日も来る日も続くと、本当に自分の親だろうかと思ったことでした。 春が過ぎるとやがて夏が来て、待ちに待った夏休みです。昼飯が終わるが早いか砂利浜へ駆け出し、手足をぶらぶらさせて一応の準備体操をし、耳の穴に唾を入れます。当時は、耳栓などはありませんから、防水のためです。 時たま、中学生の先輩達が近くで泳ぐことがあります。まだあまり上手く泳げない頃でした。その内の誰かが自分の足を引っ張って一気に海中に沈み込みます。もちろん、海水は十分飲みます。暫くして適当な時に上に押し上げてくれます。水の上に頭が出ると口の中の海水は全部吐き出すという繰り返しを三、四回やってから解放してくれました。不思議なことに、それ以後、身体が非常に軽く浮くようにり、楽に泳げるようになりました。 夏休みも後半に入り、盆の辺りからクラゲが出る頃には泳ぎもしだいに出来なくなります。更に鮫が出没するようになってからは、いよいよ駄目なのですが、それでも泳いだものです。 夏から秋への静かな移ろいが感じられるようになると、子供心にも日の暮れがしだいに寂しく思えます。 秋風が吹くようになると、体調を崩しました。夏にあまり張り切り過ぎたからです。学校を一週間くらい休み、元通りなったのは、本格的な秋が訪れた頃でした。それを毎年のように、懲りずに繰り返したのです。 そんな秋のある日のことでした。 祖父の長女が、我が家から六キロばかり奥の山の中腹にある家に嫁いでいて、そこには牛の親子がいつも四頭ばかり飼ってありました。祖父は干草を大八車に山のように積んで、朝早く出発します。後押しはいつも私でした。四人の子供の内、男は私ひとりだったからです。上り坂をゴロゴロ押して行くのは大変辛いことでした。 十月のその日は、地区にある神社の秋祭りでした。祖父は大変酒が好きでしたから、自分の娘が嫁いだ先で飲むそれは、一段と美味かったのでしょう。遠慮はいらないのです。床柱を背にした祖父の顔は、この世の極楽という風情でした。 膳の手前に栗の入ったご飯に茗荷汁、その先には鯛の塩焼きと野菜の煮付け、間には酢の物という豪華な食膳に祖父と並び、私は黙々と食べました。 祖父は、その家のお爺さんと世間話をしながら、差しつ差されつ楽しそうに飲んでいました。私はと言えば、早々に食うものを食い、その場を立ちます。 叔母さんが、声を掛けてくれます。 「あきさんや、今晩、宮の前庭で芝居があーけん、見に行くとえーわ」 地元の若衆が演ずる素人芝居がある夜だったのです。秋の日暮れは早く、夕餉の後は、皆がラジオに耳を傾けます。 時の経つのは早く、そうこうしているうちに寒風が吹き始め、師走になると新しい年の準備に何かと忙しくなるのでした。 私の子供時代は、こうして過ぎて行ったのです。 |
講師評
ある人から、「青藍」に載っているような文章は、いつ見ても上手で、とても私にはあれほどまでには書けない、と言われたことがある。だがそれは違う。錯覚に過ぎない。誰もが日本語を話すように、文章を書く力もあるはずである。 文章を書くというと、構えてしまう、上手く書かねばいけないという意識が働く。我々はプロではなく、アマチュアなのである。素人はそれなりに、よさを持っている。人生に対する思い、働く喜び、来し方の回想をありのままに書けばよい。プロと比較する必要は、さらさらない。 この作品は、子どもの頃の思い出を素直に、易しい言葉で書かれている。易しいというのは、優しさに通じる。それは意図的に飾られた文章よりも、共感を呼ぶのである。 |