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随 筆 にわとり
              田 井 幸 子 
 
                                                                            
                             島根日日新聞 平成15年7月9日掲載

 明け方近く、夢を見た。子供の私がそこにいた。
 母方の祖母の家である。
 ――ガラリ。ピシャ。一人の男子高校生が勢いよく走り込んでくる。向かいの家のお兄さんだ。
「おはようございます」
 大きな声がしたかと思うと、狭い家のこと、最後の(す)を言い終わる頃には、もう裏戸へ手がかかっている。
 汽笛が聞こえる。早く早くと急き立てるような。私は、運動会の障害物競争でも眺めている気分だ。(がんばって)と心の中で叫ぶ。やがて汽車が走り出す音がした。お兄さんの姿は、もう見えない。
 家の人たちも私も、みながご飯をいただきながら、なぜかにんまりとする。今日は間に合っただろうかと。――

 すっかり目を覚ますと、夜は明けていた。なぜ今ごろになってこんな夢をと、不思議に思っていると、ずっと東の方から朝を告げるにわとりの声が聞こえてきた。
「コケッコォー、コケッコーォォー」
(ああ、昔と変わらないなあ……)
 それで謎が解けた。夢を見ていたのではなく、昔の記憶が呼び戻されていたのだ。
「コケッコォー、コケッコーォォー」
 続けて何回も鳴いた。窓を開け放つと、朝焼けの向こうから一層よく聞こえてくる。元気のよいにわとりだ。
 昔、祖母の家でもにわとりを飼っていた。それは食用にして売るためであり、祖父の手で毎日のようにつぶされていた。裏庭は、祖父の仕事場であった。そして私の遊び場でもあり、時に汽車に乗るのに都合のよい近道にもなった。
 ホームの端が目と鼻の先に見えるのだ。枕木で作られた塀が、一応侵入者を拒んではいた。が、所々朽ちていたので、そこから簡単に体をすべり込ませることができた。あまりうるさく言う人もいなかったのかもしれない。
 それにしても、よその家の食卓の脇を通りぬけて走るようすは、どこかで見たマンガのようだ。それが本当のことなのだから、今考えると驚きだ。当時は、家の造りも大ざっぱで、開けっぴろげではあったが。
 約四十年前、祖母の家は旧国道沿いにあった。自家用車などめずらしい頃だから、駐車スペースもなく、どの家も道路ぎりぎりの所まで建っており、塀を巡らしている家もなかった。
 近くには小さな駅があった。それでも、駅前商店街の趣があった。
 そんな中、祖母の家は一風変わっていたかもしれない。通りに面していることや、ガラス戸の引き戸はどこにでもあるようなそれだが、入ってすぐが(おしのわ)と呼んでいた通路になっていて、それが台所につながっていた。台所といっても土間である。持ち運び式の風呂やタライを据えれば、たちまち風呂場になってしまうような、そんな空間である。隅の方には、かまどがあった。流しは外に付いていたので、顔を洗うのも米を研ぐのも洗濯もみんな外でした。そんな家だったから、一直線に裏口へ出られたのである。
 不便で寒い家だった。しかし私は、好んで泊まりに行った。ありし日の思い出が、にわとりの声で蘇ったというわけである。
 余談ではあるが、私は鶏肉を口にした覚えがない。牛肉や豚肉も同じで、肉類はどうしても食べる気になれない。にわとりをつぶし、包丁を研ぐ祖父の姿を悲しいと思ったことはあっても、にわとりをかわいそうだと思ったことは一度もないのに。
 子供心に、食べないことが供養になるとでも思ったのだろうか。
「コケッコーォォー」
 にわとりはまだ鳴いている。
 


講師評

 夢を見た、という書き出しで始まり、子どもの私、祖母を登場させて場面を作った。その文も短くて歯切れがよい。いつも短ければよい、というのではない。場面や語りたいことによって、文の長短は決まると思う。たとえば、緊迫した場面で、長い文が続くと緊張感を削ぐのではないかということである。
 冒頭、お兄さんが家の中を通り抜けて学校に行くというのは、のどかな情景を思わせておもしろい。仲良しの隣り近所同士の暮らしが、映像のように浮かぶ。そして、目を覚ました作者は、再び回想という夢にひたり、鶏の鳴き声で現実に戻った。
 短い作品だが、穏やかでおおらかであった昔を思わせてくれる作品である。
 余談、と書かれた最後の段落は必要だろうか。最後の二行で、この文はまとまるように思う。