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随 筆 古いはなし
              山 根 芙美子 
 
                                                                            
                             島根日日新聞 平成15年5月14日掲載    

 宍道湖へ注ぐ船川という名がついた川の近くに、父の生家がある。
 今は平田市になったが、この辺りの地域には、昔、長い年月をかけて斐伊川が運んできた土砂によってできた土地である。そのため、灘分、出来州、新田、島村、外島などの地名が残っている。川は、梅雨どきとか、台風がつれてくる豪雨でよく氾濫したから、どの家にも底の平らな舟があった。
 夏休みになると、子供達はめいめい手桶、金だらいなどを持ち出し、舫ってある舟に水を汲みこむ。その中で、小さな子供達は泳ぎを教わるのである。
 何日かして年かさの子が、よかろうと判断すると、皆で川の真ん中へ舟を押し出し、子供達もろとも転覆させる。幅も水深もかなりある船川の流れに放り出された子供達は、学齢に届いたばかりだが、無我夢中、必死で手足をばたつかせて岸を目指す。今どきの親が見たら目を回しそうだが、そんな洗礼を受けるので、皆泳ぎは上手であった。
 それでと言うわけではないが、父は海軍を志願した。

 入隊日が近づいたある夜、家人の寝静まるのを待って兄弟三人、土蔵へ忍びこんだ。農家の唯一の収入源でもある米俵がずらりと並んでいる。一山が十俵で、四、三、二、一と三角形に積んである。半端な数では却って怪しまれるだろうと、ひと山を担ぎ出し舟に積んだ。目指したのは、いちばん近い、大きな街である松江である。
 軍人になるのだから、先ず身辺をきれいにしなければならない。ついては、と言うことであったそうな。飲む、打つ、買うのいずれであったかは聞きそびれてしまった。
 翌、夜明けに帰ってくると、家から川までの道に散らばっていたであろう藁屑も足跡も、きれいに掃かれていた。そんなことが出来るのは、おふくろしかいないが、一生けぶりにも見せなかったと。
 そんな話をしてくれたのは、父より長く元気だった叔父である。

 おふくろこと私の祖母は、晩年、寝たきりであったが、亡くなる前日、「あれが帰ってくる」と叔父の名をしきりに呼んだ。
 その頃、叔父は台湾の基隆にいたので、誰も本当にしなかったが、虫の知らせというのか母子の絆なのか、ひょっこり叔父が帰ってきて皆を驚かせた。

 今は昔の古いはなしである。


講師評

 文体という言葉がある。文体は、書き手がこう表現したいと考えた結果、生まれるものであり、個性でもある。
 この作品は、作者がかつて見聞きしたことを語り部風な文章で書いたものである。
 冒頭の舟は伏線になっている。さらに古い平田の夏の風物を導入部分にして、父の若き日の出来事を叔父から聞いた話、それに続いて叔父と祖母の深いところにあった心の交流とでも言うべきことを描いた。
 短い作品だが、描写が自然で、情景が目に浮かぶようである。
 このところ、公民館などを中心にして、その土地の歴史、風景、伝承などを記録し、地域への親しみや連帯を深めようとすることが行われている。映像化することもあるが、この作品のように文章にして書き残すという試みも必要かと思う。
 だれでも存在したことを語り継ぎたいと思う。それを文字にすると、自分史や小説、随筆などになるのだが、同様に、昔からの話を語り継ぐことも文化伝承活動の一つである。