随 筆 鬼遺らい「鬼は外 福は内」
原 正 雄
島根日日新聞 平成15年3月5日掲載
古老曰く。「あの頃は、節分で荒れるぞ!」 その日が来ると、確かに、今まで緩やかであった天候も、なぜか決まったように吹雪く。 暦の上であっても、冬から春への転換の時で、気象も変調を起こすからだろうか。現代の科学的視点から見れば、ちょうど、気圧の変化が周期的に、この頃に来るからかもしれない。 今年の節分は荒れることのない、時々、陽顔を見せるよい天気となり、日のいちばん短い冬至からひと月あまりも過ぎると、日暮れも六時をまわるようになった。さすがに、節分が明けて立春の頃になると、三寒四温を繰り返しながら、光から風から、春の兆しを感じるようになる。 「鬼は外、鬼は外、鬼はー外」 「福は内、福は内、福はー内」 暗くなり、明かりが灯る頃になると、家々から邪気を払い福を招き入れようと、大きな声が漏れてくる。 遠く、祖先たちが今に伝えてきた、何かロマンチックで、ささやかな願いのようだ。 それは、中国から伝えられた行事で、文武天皇の慶雲三年(七〇六)、諸国で疫病が流行り、それを撃退しようと土牛をつくり、大らい(疫鬼)をしたのが最初である。以後、宮中では大晦日の夜の行事とされてきたが、民間に伝わると、陰暦の正月と立春が混同され、節分の夜に行われるようになった。と「四季のことば辞典」は書いている。 私たちが住む出雲地方は、古い暦史をもつ「神の国」であり、数々の伝統行事も、他の地方以上に重んじられ、伝えてきたのではないか。 そんな伝統行事の一つである節分。私が過ごした六十年前の戦中、戦後の時代は、今のイベント的行事と違い、神への篤い信仰心をもった行事として執り行われていた。 その思い出は、今でも鮮明である。 夕方になると、父はどこかから山椒の木を切って帰り、十センチ位の長さに切って、その先に柊の葉と鰯をはさみ、木戸口に棘したり、髪の毛を燻らした。その柊の棘と鰯と髪の毛の悪臭で、鬼を追い払うというのである。もう一つは、山椒の木で箸を作り、夕食はその箸で食べると病気に罹らないという慣わしである。この箸の曲がりがひどく、子どもにとって使い難いものであった。 台所では、母たちが夕食のご馳走や五十センチはあったであろう焙烙という平たい土鍋を使って、大豆を炒り、一升枡(一・八リットル)に入れて神様に供える。父は日が暮れると神様を拝み、その一升枡をもって、「鬼は外、福は内」と豆をまいて廻るのである。その豆を子どもたちは、取り合いこをしたりの大はしゃぎで拾い、楽しんだものである。拾った豆を自分の年の数だけ食べると、一年間マメに過ごせるといわれ、真剣に拾って食べた。 大人は数十個も食べるのは到底無理であり、適当に食べたのだろう。また、この豆をビン等に入れておき、初めて雷が鳴った時に食べると、雷に臍をとられないと、本気で信じたものであった。 豆まきが終わると、夕食となる。祭りや正月、祝い事のような客を迎えた時と同じようにご馳走が作られた。豆腐に油揚げや肉に、大根や人参、牛蒡、里芋、白菜などの冬野菜を加えた鍋物である。ご飯は白飯でなく鶏の肉の入った五目飯だ。 肉は今のように買ってくるのではなく、各家庭で飼っている鶏と兎である。捌きは近所の猟師の人に頼んでいたようだ。どこの農家でも、当時は、五〜十羽の鶏を飼い、卵は換金した。卵は特別の時に食す貴重な存在であり、老化して産卵の悪くなった鶏から肉とするのである。 兎は草食動物であり、容易に飼い増やすことができたためか、戦時中に督励され、蛋白源として人間に尽くしてくれた。今は懐かしく、また、可愛そうな気もする。これも当時の食糧事情によるのだが、今にしては考えも及ばないことである。 正月行事をはじめ、盆や葬儀に至るまでのさまざまな習俗、神仏を崇め敬う人々の心や暮らしの知恵などの多くが、時代の流れに抗うこともできず、私たち子どもの時代から僅か半世紀余りの間に消えていった。 そして、現代の暮らしは、古いものから新しいものへ、和風から洋風化へと合理化が全てという風潮に変わってきたといってもよい。 「鬼は外、福は内」……。 子どもたちに夢を与え、大人は郷愁を得て安らげる節分行事をはじめ、多くの伝統行事を忘れることなく、守り伝えることが、これからの私たちの務めのような気がしてならない。 |
講師評
柊の枝に小魚をはさみ、それを髪の毛で巻いて火であぶるのを出雲では「厄挿し(ヤークサシ)」とも言うらしい。隠岐では、家の外回りに柊の枝をさしておく。鹿足郡では子どもたちが茶釜の蓋を叩き、もぐら追いをする。節分の行事は同じ島根県内でも地域によって違うようだが、生活様式が変わるにつれて、昔からあった年中行事が減ってきた。もうしばらく経つと、全て分からなくなると思われる。 節分荒れ、と昔から言われているが、その言葉から幼い頃の行事を思い出した。今ならば、その記憶だけでも呼び戻すことができる。作者はそれが書きたかった。書いておけば、少なくとも記録として必ず残る。 島根日日新聞文学教室では、戦時中のことなどを細かく記録しようと努力されている方もある。貴重な記録文学とも言えるのではないだろうか。 |