なまなましくも命の色
平里 葉月 平成21年8月13/20日付け島根日日新聞掲載
街で見かける公立学校の小学生のランドセルの色は、男の子が黒、女の子はほとんどが赤、あるいはピンクやオレンジなどの暖色である。五十年ほど前の、私の小学生時代と変わらない。私のランドセルは原色に近い緑だった。暖かくも冷たくもない、中間色である。今でも、緑のランドセルを背負っている子供など、めったにいない。 高学年になってからのことだが、担任の先生に訊かれたことがある。 「お兄さんのお下がりなの?」 ちがう。私自身が願った色だ。それまで、緑のランドセルに何の違和感もなかった無かったので、びっくりした。女の子が緑を選ぶのは、変わったことなのか。 家に帰って母に告げると、さりげなく言われた。 「ランドセルが緑っていうのは、かなり個性的よ」 よその子に比べて個性の強い人間なのだ、という意識が芽生えた。同時に、子供たちの中で娘は一人なのに、その私が、いわゆる女の子らしい赤やピンクではなく、緑のランドセルを望んだことを、申し訳なく思った。 それまで、私だけが“皆と違う”などという意識はまったくなかった。手に入れるとき、家族から、“赤にしなさい”とも“緑なんて”などとも言われた覚えはない。緑のランドセルを背負ってるからといって、友達にからかわれたことも苛められたこともない。周りの誰もが、私の個性として捉えてくれていたのだ。 勝手なもので、私自身が親になると、子供にはよその子とあまり違ったことをして欲しくなかった。苛めを心配したからだ。娘が小学校へ上がるとき、 「ランドセルは赤が欲しいの」 そう言われて、ほっとしたのを覚えている。彼女は、私ほど個性が強くないのだろう。 私の緑のランドセルは、当時、松江に住んでいた祖父母が買ってくれた。松江市中を探した、と聞いているが、今でも保守的な街に、その頃、緑のランドセルが店頭にあったとは考えられない。きっと特注品だったのだろう。それは、使っていて察することができた。友達の誰よりも分厚い皮らしい皮の製品で、止め具はベルト式の原始的な仕組みになっていたからだ。六年間使って全く型崩れしない丁寧な縫製も、量産品ではないことをうかがわせた。 小学校を卒業してから、ランドセルが緑だったなどと、新しく知り合った人には言わなかった。 色は心を表すといわれているからだ。自ら緑のランドセルを望んだことにより、幼いころの心の底を分析されるのが嫌だったのだ。 なぜ緑という色が好きだったのか、よくはわからないが、幼稚園のクラスが“みどりぐみ”の故もあるだろう。ランドセルの色に合わせて、下敷きもふでばこも緑に統一してもらって、私はご機嫌だった。 宙飛行士の向井千秋さんのランドセルも緑だったと、何かの書物で読んだ。私のような変わり者が他にもいる。しかも、偉い人だ。緑のランドセルを持っていたことは、恥ずかしいことでもなんでもない。小学校卒業以来、そう思えたのは、このときだった。 「ネイビーカラーの中学、高校を終えて、最初に着る色は“緑”よ」 従姉に言われたことがある。そうかも知れない。学校時代、私服を殆ど着ないで過ごすと、服飾カラーに対するセンスが磨かれない。急に派手な赤など着られないから、グレーやベージュ、ちょっと派手でグリーン系に落ち着くのだろう。 私も緑の服を手に入れたのだが、幼い頃のようには、ご機嫌にはなれなかった。好きなのに、妙に引っかかる色になっていたのだ。 花柄プリントを選ぶとき、葉の色が緑でないと気がすまなかった。赤の花、緑の葉は、色合いのバランスが悪いと、センスのない、下品な雰囲気になる。それはわかる。だが、赤系の葉色は不自然であるし、茶色は枯葉のようで嫌だ。ついつい緑の葉色を選んでしまう。買って帰って、いざ着ようとして、その垢抜けのなさ、気品のなさに気付く。でも、やはり、葉の色は緑でなければ我慢ならない。その繰り返しだった。 ほんの少し色についての知識を得たくて、何度か、学習会があると受講した。街の色、広告の色、そして最後はいつも、最も身近な服飾の色へと話が進む。ひとりの講師の言葉で、憑き物が落ちた。 「緑は自然界の色ですから、難しいです。微妙な違いで上品にも下品にもなり、気をつけないと、生々しくなってしまうことがあります」 これだ。自然の色、つまり、洗練されない色なのだ。 なまめかしい≠ニは言わなかった。なまなましい≠ニ言ったのだ。そんな装いなどしたくない。 高級品なら、デザイナー氏の色のセンスを信じればよいのだろうが、安物では、自分で判断しなければならない。人によって似合う色が違うのだから、生々しくなってしまう色も、人によって変ってくるのだろう。カラーセンスに自信はない。ならば、危うきには近寄らない。 以来、できるだけ、緑を避けてきた。 最近、生け花の巡回講座を受けた。中央の偉い先生が来られての講義である。家に花を飾ることができればよい、くらいの気持ちで習っている不熱心な生徒ではあるが、印象に残った言葉がある。 「花は季節を、葉は命を現します。花だけでは命がありません」 葉の色はたいていが緑で、枯れると茶色くなる。ということは、緑は命の色なのか。 そこで思い出した。 生まれて初めて行った外国はアメリカである。太平洋を渡り、北米大陸を上から見た瞬間、その赤茶けた色に驚き、不毛の地≠ニいう言葉が浮かんだ。見たのはアメリカ西海岸のほんの一部であり、決して不毛の地ではない。ダムをつくり繁栄の都市を築いているのだが、私たちの住む日本のような緑の大地ではないのは事実だ。短い滞在中、飛行機に乗って見下ろすたびに、心が枯れてしまいそうに寂しくなるのを覚えた。緑は心を癒してくれる。日本が、いかに緑豊かな潤いのある土地か、と再認識した旅行だった。 七月に入り、梅雨の末期で雨がよく降る。晴れが続くとしょんぼりとしてしまう木々や草のその緑が生き生きとしている。生命がみなぎっているのだ。我が家の小さな庭では雑草が生い茂る。抜いても抜いてもすぐに生えてきてしまう。雨の合間に庭へ出て、草むしりに汗を流す。 |
◇作品を読んで
作者は、小学生の頃は緑色が好きだった。今も色には興味があり、その視点でものごとを見ることもある。その色についての思いが、詳しく書かれている。 緑色のランドセルというのは、確かに珍しいのかもしれない。調べてみると、ある市の総合病院が使っている診察券は緑だった。高齢者福祉手帖は薄い緑である。安らぎ、安心、気持ちの安定につながるのかもしれない。交通信号の“進め”は、青信号とはいうが緑色である。タイトルに使われているように“生々しい”場合もあるようだ。色というのは人間にとって不思議な作用や役割を持っていることを、この作品は語っている。 |