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    時間セレブ  
                       
       田井 幸子                                                                                                          平成21年8月6日付け島根日日新聞掲載

 会社を辞めて、一年と半年になる。三十五年間、フルタイムで働いてきた。
 これまで専業主婦のことを三食昼寝付き≠ニは思っていなかったが、今の私は妙に納得する。――なるほどなぁ、ご尤も、ご尤も――。
 このところ、一日の大半を気儘にひとりで過ごしている。決められた場所を掃除し、適当に食事の準備をしていれば誰も文句は言わない。養育すべき子や孫もおらず、介護の必要な親もいない。私の忠実なシモベである家電品のお陰で、家事にかかる時間は至って少ない。
 空いた時間にプール通いを始めたが、長続きしなかった。ウオーキングも、いつしかやめた。レース編みの本を買い、花瓶敷きを一枚作った。裁縫道具を引っ張り出し、型紙を眺めてはいるが布地を買うのは、いつのことやら。
 五か月前のことである。
 本を読んだり、テレビを見たり、退屈することはないのだが、どこか後ろめたい気持ちが強くなってきた。体全体を覆ってきた贅肉も気になり始めた。
 そこで考えたのだ。半日だけでも働けば体力づくりにもなるし、お小遣いももらえる。お金を使ってスポーツジムに行くよりずっといい。なんて都合のいいことを。
 インターネットで仕事を探すと、家の近所に条件を満たすところがあった。パンの成型・加工・製造・包装・販売などをしている会社で、従業員は三十人余りだ。アポイントも取らず、ハローワークも通さず直に行った。
 すぐに社長との面接が行われ、履歴書の内容を二、三質問された。実際の作業を見たいと言うと見学させてもらえた。女性が二人、作業台を中に向き合って袋詰めをしているところだ。これなら私にもできそうだ。午後だけのパートである。即、採用が決まり翌日から働くことになった。
 久々の肉体労働に、私は張り切っていた。香ばしいパンの匂いに包まれ、暖かい場所で、これから毎日、生き生きと働くのだ!
 ――のはずだった。
 予想と違っていたのは、一番近くで働く、同じ作業をする、毎日顔を合わせなければならない、先輩パートさんの態度と気性。ああ! 私より少し年上のオバサン。眉間にしわを寄せた渋い顔、不機嫌丸出しの低い声からは負≠フオーラが立ち上っていた。しかし、この人に付いていかなければ仕事を覚えることはできないのだ。私は、ひたすら明るく、逆らうことなく、時に理不尽な言葉にも従い、パンを詰め袋を閉じ、数を数えた。
 三週間が過ぎた。
 段取りを覚え仕事が早くなったからか、時々やさしい言葉をかけてもらえるようになった。それでもまだ顔色を窺いながら、内心びくびくしていたが。
 ある時、私は思い切って、ひとつの提案をした。どう考えても効率の悪いシールの貼り方についてだった。機嫌のいい時を見計らい、おもむろに切り出すと、
「そんなことをしたら、社長に叱られます。今まで通りでいいから。フン」
 眉間のしわが、ぎゅっと縮まっている。シールが取り出しやすいようにと、私が作ってきたものを見もせずに、鼻であしらわれたのだ。私は、それらのものを作業台の下に仕舞い、いつも通り仕事を続けた。近付きかけた距離が一段と離れていった。
 時給六百六十円。対するは、肉体的苦痛と精神的ダメージ。両者は微妙なバランスを保ちながら、それでも三か月もった。
 その間、パンの模型を作って家で袋詰めの練習をしたり、見聞きしたことをマニュアル化してもみた。徐々にではあるが、迅速・正確・丁寧な仕事になってきていると自分では思えた。しかし、ひとつとして褒められることはなかった。すぐに作業が始められるように十分前から準備していても、「ありがとう」の一言もなし。
 意地の悪い同僚、そりの合わない上司は以前の勤め先にもいて、上手に切り抜けてきた経験がある。そのひとつひとつを思い返し、あの手この手を使ってみたが効果は一時。日を追うごとに時給の重みは、旗色を悪くしていった。
 そしてついに、その時がやってきた。どうにも耐えられないお言葉を頂戴し、精神的ダメージが勝利した。
「社長、今月いっぱいで辞めさせてください」
「わかりました」
 面接の時のように、あっさりしたものだった。
 あれから二か月、今だに迷っている。働きに出るのも怖いし、時間はもったいないし。
 小説『夢をかなえるゾウ』に出てくるガネーシャ(三食昼寝付きの神様)が言っていた。
「わしゃ、時間セレブなんじゃよ」と。
 私も時間セレブになったと思えばいいのだ。ただ、あり過ぎて戸惑っている。宝くじで三億円当てた気分だ。貧乏性のせいで、どう使っていいのかわからない。
 本物のセレブなら優雅にゆったりと時を消費するだろう。なのに私は、お金を生み出さない時間の中で足掻いている。

◇作品を読んで

 設定は変えてあるだろうが、作者の体験が下敷きになっている作品で、勤め先で起きた人間関係のトラブルがよく書けている。ファンタジー小説『夢をかなえるゾウ』も背景材料としてうまく取り入れられ、タイトルがそこから取られているのも面白い。
 この作品は、なぜ読む人の興味を引くか。それは、人間が描かれているからである。人間模様がなくては、共感を得にくい。
 小説は当然のようにそうだが、随筆、エッセイの類も、読み手は人間のドラマを見たいのである。ストーリーはもちろん、登場人物の心理描写がそれに当たる。この作品も直接に書かれているわけではないが、作者の気持ちが滲み出ている。