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    悲しい酒  
                       
       高野 八朗                                                                                                          平成21年7月30日付け島根日日新聞掲載

 出雲市随一の繁華街と言われる代官町は、今夜も人が少なかった。ネオンの灯りだけが、そぼ降る雨の中に浮かび上がっている。
 省吾は足を止めた。板に墨で居酒屋奈津≠ニ書かれた文字が雨に滲んでいる。初めての店だ。
「奈津……か」
 省吾は呟き、黒ずんだ格子戸を横に引いた。五人も座れば満員という、カウンターだけの酒場だ。客は省吾、ひとりだった。
「何かわけあり? しけた顔して。女……図星だろ」
 カウンター越しに、店主らしい和服の女が言った。六十近いだろうか、白髪を後ろでまとめて括ったのが齢を感じさせる。注文もしないのに、熱燗のコップと竹輪の切れ端が出た。
「いんや、なんも」
「そう? ばあさんだと思ってんだろうけど、これでも若い時があったんだよ」
 聞きもしないのに、よく喋る女だと省吾は思いながら、熱燗を呷った。
「そんな飲み方しちゃ、こっちまで切なくなるわさ。振られたんだな」
「分かるかい」 
「当たり前だよ。この店、四十年近くやってんだから、いろんなお客を見てるよ。その酒、別れ涙の味がするだろ?」
 図星だった。省吾は、空になったコップを女の前に突き出した。薬罐で沸かした酒が、コップから溢れた。
「飲んで棄てたい面影が、ほら、酒に浮かんでるだろ?」
 省吾は、目尻に滲んだ涙を人差し指で拭った。女がちらりと視線を投げたのが見えた。
「酒は、人の心を悲しくさせるんだよ。お客さん」
「畜生、今日は、あいつ、奈津ってんだが、結婚式だった。二十八だから、先を急いで……」
「やっぱりね。好きな子だったんなら、祝ってやりなよ」
「ばばあに、俺の気持ちが分かってたまるか」
「ばばあ……。嫌な言葉だねえ。けどさ、娘さんは、あんたの気持ちが分かってたのかい?」
「当たり前だ。三日前、力まかせに押さえつけてキャミソールを……。だが、そこで逃げられた」
 乱暴だねえ、だから嫌がったんだよ、と女が小さく言った。
「左胸に二つある、小さいホクロが好きだったんだが」
 ナツ、結婚式、二十八歳、二つのホクロ――と、女が呟き、目をきらりと光らせたが、省吾は気づかなかった。
「好きでも添えないってのが、人の世かね。俺、怨むよ」
 女が早口で、まくし立てた。
「おにいさん。今日は、わたしゃ、いいことがあったんだ。早じまいにするから、もう帰んな」
「なんだよ。邪険にすんな」
「勘定はいらないから、早く、帰んな、とっとと出ていきな」
「なにい――」
 省吾は、座っていた椅子を蹴倒して立ち上がった。女が、グラスを片付けながら言った。
「おにいさん、孫娘に、もうこれ以上、手を出したら承知しないからね」
 押し出されて外に出た省吾の背を、隣のスナックでがなり立てている悲しい酒≠フ歌が追ってきた。

◇作品を読んで

 下敷きになっているのは言わずと知れた、美空ひばりの歌、『悲しい酒』である。歌というものは、特に、演歌にはドラマがある。ドラマがあるから演歌があると言い換えてもよい。演歌は、さまざまな人生の喜怒哀歓を歌詞とメロディに託している。それが心を慰めたり、希望を持たせてくれるのである。
 この作品は、四百字詰原稿用紙で三枚半だ。どの演歌でも、想像を膨らませれば、こんなドラマがある、というか創作ができるのでないだろうか。何も書くことが無いときに、手すさびに作ってみるのはどうだろう。何でもよいから書き出してみる。そうすれば、筋書きが生まれる。あとは言葉を「楽しんで」選ぶのである。
 作者は、このドラマを片手にして、代官町に今宵も出かけだろう。ひょっとして、奈津≠ニいう飲み屋に出会うかもしれない。