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    春の一日 
                       
       思吐露 もどろ                                                                                                          平成21年5月21日付け島根日日新聞掲載

 櫻が終わったばかりの晴れた日、叔母の二十三回忌の法要に招かれて出かけた。
 没後二十年も経てば、大抵はお寺で簡素に済ますのが通例だが、従兄弟は閉じたままの生家を一日開け、法要を行った。
 他県に居を構えて三十年も過ぎているのに、佛壇を残しているのは、心の原点を動かせずにいるに違いないからである。
 障子が開けられると、ほど近い海岸から運ばれてくる潮の香が、籠もるカビの臭いを外に押し流した。
 読経が始まると、一気に静寂な世界に入った。
 笛の音を連想させる鳶の鳴き声、表を通り過ぎて行くバイクの音が、間奏のように聞こえる。
 半世紀以上もタイムスリップをしているような錯覚に捉われた。
 耳に響く経文は子供の昔、聞いたものと同じだ。違うのは、子供たちの甲高くはしゃぐ声がバイクの音に変わっただけである。
 それにしても、あの謡に似た経文を唱える声の抑揚は、人の心を別世界に引き込むようにつくられているのであろうか。
 子供の頃、先祖の月命日になると、住職がやって来てお経を上げていたことを思い出す。
 時間にすれば、たかだか十分間くらいであったと思う。お坊さんの背中を見ながら、あらぬことに思いを巡らせ、正座をしていた。
 死んだら、あの世では毎日、気持ちの滅入るお経を聞かされるのだろうか。お寺の天井に描かれているような天女が現れて、気の遠くなるような静かな場所に連れて行かれ、退屈な一日を過ごすのだろうか。時には、地獄絵図を思い浮かべ、慌てて打ち消したものだった。
 長い読経が終わり、ふと、我に返ったが、気持ちは沈んでいた。
 何とも心の落ち着かない春の一日であった。

◇作品を読んで

 短い作品だが、作者は推敲を繰り返した。
 一字一句をどうするか、読点の置き方、助詞の選択などなど、読み返しをすればするほど、もう少しよくするにはどうすればよいかと苦慮した。
 原稿を最初に見せてもらったのは、四月の二十日であったから、「一応の」完成までに、ひと月近くを要したことになる。「一応」というのは、これで全てよしというわけではないからだ。
 推敲というのは、際限なく続く。極端な言い方をすれば、文章は常に未完だろう。だが、その作業は次に書く文章に、必ず生かされる。
 文学教室では資料をもとに、いろいろな例文を検討する。しかし、それは所詮、他人が書いたもので自分の文章ではない。理屈は分かり、そのときには納得した「気になる」のだが、いざ自分が書くと思うようにはいかない。思惑のとおりにできたと考えても、独り善がりの場合が多いのである。 
 絵でも作曲でも同じで、当然のこととして作品を作らなければ上達はしない。文章とて同様である。長い文章を書かなければいけないように思われがちだが、この作品のように短くてよいのである。
 もっとも、短い作品というのは、実は難しい。短いということは、そこに文章の精髄が込められているからで、それだけ勉強になるということだろう。