フィリピンさん
高 山 美 子 平成21年3月19日付け島根日日新聞掲載
朝七時半ごろ、彼女は何の連絡もせず、大きな声で「おはよう」とやって来たらしい。小学校へ行こうとしていた三年生の孫と、玄関先でバッタリと出会ったもようだ。洗濯物を干す準備の私には、彼女の声が届かなかった。 孫の麻衣が「ばーちゃん、友達のフィリピンさんが来たよー」 三十メートル範囲にも轟くほどの声で言った。 フィリピンさん≠ニいう馬鹿でかい声に、持っていた物干し竿をすんでのところで落としそうになった。大急ぎで、玄関に駆けて行った。フィリピンさんは、ぶすっともにっこりともせずキョトンとしていた。 「今日は何か約束でもしてたかね」 不意に訪ねて来たことを訝しく思いながら聞いた。 「旦那が松江の親戚に用事で行くもんで、暇になったけん車で連れて来てもらったが」 彼女とは、同じ慢性疾患を抱えている、十数年来の病院友達である。持病が再発する時候が驚くほど二人は重なり、四回、五回と同じ病室になった。 入院中、お互い壊れそうになっていた心が手当てにより一山越すと、二人は人間性のどの部分や何に惹かれ合うのか判然とはしないが、ほど良い友達になった。女特有の身の上話も、どんどんするようになった。 退院している時期も、安全パイと認め合っているのか、そこそこ良き関係が保たれている。彼女はしょっ中、我が家に遊びがてら話に来る。旦那さんに了解が得られたら、お泊まりもする。 フィリピンさんという呼び名は、我が家の家族六人にしか無論通用しない言葉である。およそ十年前、最初に病室で出会った時、彼女の気性、言葉使い、容貌に唖然としたのだった。 彼女は、漁村地帯で生まれて成人式を済ませた。その後すぐさま、路線バスも廃止になりそうな、とんでもない山奥の男性と恋をし、昭和四十年代初め、双方の親、兄弟の、生活の様式が全く違うという猛烈な反対を振り切り、一緒になったと話してくれた。 「ご主人のどこに惚れ抜いた?」 「今は、さいくにつかんが出会った時は、橋幸夫にそっくりのいい男だった」 「一目惚れかね」 「若気の至り。顔しか見とらんだったが、とんでもないオマケが付いとった」 「とんでもないということは、ぶっぶっーだよね」 「女同士の永遠な戦。クソばばあが別冊付録で付いておった」 この会話で彼女の人となりがすっかり気に入り、楽しい時間が持てるようになった。別冊付録は、彼女と知り合って五年後、コロッとあの世へ旅立った。 買い物に出掛けていた時、旦那さんから「ばばが死んだ。早く帰れ」と携帯電話があり、「おべて、とんさくって帰った」と言った。その言葉が、いかにも彼女らしいと印象に残った。 「何だかんだと大文句言ったが、家にもう姿が見えんと片腕もがれたようだわ」 「人間って馬鹿だよねー。一緒におる時はうんざりだが、もう自分が死んで、重たい石の傘を被る迄、どう悔やんでも会えないんだよねー。失ってから大事なものがはっきり分かるもんだよ」 「あんたが言う通りだわ。今更どげしゃもないが」 橋幸夫にそっくりと聞いていたご主人と、二回目の入院でお初に言葉を交わした。目と鼻の感じは多少似ていたが、芸能界の本物が、やはり勝っていた。だが、若かった時代に、彼女が夢中になったのもどことなく頷ける。 彼女は純粋な国産であるが、肌の色合いが至って健康色だ。服は原色が好みらしい。頭髪は、よいほど合いのウエーブが出ているテンパーだ。、金髪に近い色彩で染めている。メークはこれがまた素晴らしい。生きのいいお寿司屋の若大将のような、キリッとした眉毛。クッキリとした可愛い目元。眉と目の隙間に、オーシャンブルーのアイシャドー。決めたというが如く、熟れきった唐辛子色の口紅も似合っている。 彼女の言葉に、時折何語かと不審に思うことがある。信号機かと勘ぐりたくなるエキゾチックな装い。誰がいつから言い出したのか、我が家では「フィリピンさん」が共通語となり、話題によく登場するようになっている。いくら待っても「なぜ私がフィリピンか」と聞いてこないので、先日そ知らぬ顔で「フィリピンさん」と声を掛けたら「インドネシアでもベトナムでもかまわん」とあっけらかんとした返事が返ってきた。 その返事に、彼女の心は想像を遙かに超えるほど大きいと感じた。亡くなった別冊付録と上手い具合に同居できたのも何となく理解できた。失いたくない良き友を得たことに満足だった。むろん、それ以後、おおっぴらに親しみを込め、家族六人は「フィリピンさん」と呼びかけている。 |
◇作品を読んで
特に深い意味のある文章ではない。「フィリピンさん」というニックネームの由来が書かれている。 フィリピンから来た人の話かと思って読んでいると、どうやらそうではないようだと思えてくる。終末近くなって、東洋的なエキゾチックな様子の人だから、そう呼んでいるのだと分かるのである。 最初から、伏線というのか謎を出しておき、最後に解決をしてみせた。読み手に後続文を読み続けさせたいという意図だろう。 テンパーとは本来は、黄色の応急処置用のタイヤに付けられた名だが、作者は、天然パーマのことだという。使われている言葉も意表を突いており、苦笑しながら読まされる。 |