二つの叫び
高木 さやか
平成20年12月18日付け島根日日新聞掲載
十一月初めの三連休に、大阪に住んでいる従妹の裕美子さんが、我が家にやって来た。 彼女は、私と境遇が似通っている。子供は皆独立し、旦那さんは四年前、あっけなく天国へ駆け昇っていった。 従妹の中でも、なぜか彼女とはよく気持ちが通じ合う。玄関で顔を合わせた途端、我が胸に酒飲み音頭のファンファーレが鳴り渡った。彼女は三年先輩だが、アルコールをこよなく愛する性格では同級生だ。バッチリの鴨が飛来して来たと大歓迎で迎えた。近所のスーパーへダッシュで行き、ビールにも焼酎にも合う、肴ばかりをわんさか買い込んだ。 午後六時、六人の家族が勢揃いし、孫三人にはレトルートカレーの晩御飯ということにした。凄い勢いでカレーを食べた孫達は、アニメやビデオを見るために別の部屋に行った。娘夫婦も酒は結構好きだ。四人は、ビールで再会出来た喜びの乾杯をし、豊かにある肴を食し、延々と飲みかつお喋りをし、遂には日付けが変わってしまった。 娘夫婦は寝室へ行った。残った二人は、三時までの延長戦を楽しみ、寝ることにした。九時間も飲み食いをしたお陰で、意識は多少あったが足元が定かではなかった。 四時間ばかりグッスリ眠り、孫達の声にパッチリ目覚めた。気分良く飲んだ酒は宿酔いは決してしないが、彼女は我が家のあちこちをウロウロ歩き回り、何か捜し物をしている。 「どうしたの? 何か見えなくなったの?」 「うん、ちょっとね。眼鏡をどこではずしたのかさっぱり覚えがないの。無かったら眼鏡も探せないのよ」 探せないのは、当たり前である。孫達も駆り出し、一時間余り探索したが、とうとう眼鏡の姿を見ることが出来なかった。 朝風呂を楽しんだ後、彼女は、化粧品のどれを使っていいのか見えないと言う。 「はい。これが化粧水、次は乳液ね」 言いながら手渡す。 「後は私がどうにかやるので、もういいわ」 三十分以上、鏡に向かっていた彼女が言った。 「やっと終わったわ、どう? こんなものでいいかしら」 ノルウェーの画家、エドヴァルド・ムンクが描いた『ムンクの叫び』のように両手で耳を塞ぎ、「自分の顔がどうなっているのか確かめてみたら」――やっと言えた。眉は、竹箒の如く何本もの線が描かれている。頬紅は左右の濃さが違う。ファンデーションと白粉がムラムラで、まるでコンニャクの白和え状態だ。 「家ではどうして化粧するの?」 「大きい凸レンズの鏡でするわ。今日は眼鏡も無いし、愛用の鏡もないので……」 「九時になったらお店が開くから鏡を買ってくるわ。誰が訪ねて来ても絶対に出ないで」 少しばかり意地悪心が湧いてきた。凸レンズで我が顔を映したらどんなアクションを見せてくれるのか楽しみだ。開店と同時に、目指す鏡を買った。 「はいこれ、必需品、早速見てごらん」 おもむろに鏡を出し、彼女の顔が見えるように置いた。瞬き一つせず睨み付けていたが、三秒後、「キャーッ、えらいことになってる。魔物だわ」と叫んだ。すぐさま洗面所で二度とお目にかかれないアートメークを洗い落とす。その後、ドデカク映る凸レンズでさっさとメイクを仕上げた。手馴れた動作に感心したが、私は自分の顔を絶対に凸レンズの鏡で見ることはしないと誓った。皺の長さ、深さ、シミなどなどが、恐ろしい程の迫力で鮮明に映し出されるのだ。 「そんなに不自由なら、コンタクトにしたら」 「何度か挑戦したのよ。けど、目が細過ぎるし、無理をすれば入るんだけど、痛くて涙が出るの。結局、諦めたの」 「細目の人も使ってるけど、あんたは特別細い上に垂れ目だし、二つも関所があるからね」 いくら仲のいい従妹とは言っても言い過ぎたと反省はしたが、「さやかさんがあっさり言うのには、ちっとも腹が立たないわ。だって本当のことだからね」と、二人で大笑いになった後、不意に、「私、今夜の高速バスで帰るわ」と言い出した。 「じゃあ大急ぎで眼鏡を探し出すわ。寝る前後の記憶は全く無いの?」 曖昧な記憶を思い出そうと必死になった。思い出した。電気毛布を使うから掛け布団は軽い方がいいと寝惚けた声で言い、よろけながら掛け布団を取りに別間に行ったのだ。 重い布団を思い切り広げ、パタパタとやったら眼鏡が出てきた。 昼時になった。コンタクトアレルギーは、ソバが好きだと言うので、外に出て、出雲ソバの大盛りを丹念に味わって家に帰った。午後五時に目覚ましをセットし、二人共ベッドに潜り込んだと同時に深い眠りに入ったらしい。 目覚時計が激しく鳴り、三時間余りの充実した眠りから覚めた。午後七時半にバスは発車する。夕食はどうする、と聞いてみた。 「昼のソバがまだ腹の中に残っているし、コンビニ弁当をバスの中で食べるわよ」 バスの時刻が迫まり、裕美子さんは一路大阪へ向かって去って行った。 晩秋だというのに、天気は晴れマークが続いていた。主人が亡くなって四年余り。草刈り機で雑草だけ奇麗にしていた畑で、何か野菜でも育てようかとふと思った。幸いにも畑は屋敷続きだ。だが、二百平方メートルくらいある畑は広過ぎる。 何も作って無い期間が、四年間もあった。手始めに、五分の一程度を開墾することにした。開拓しようと思う広さを決め、強そうなビニール紐で囲むと畑らしくなった。 一鍬掘っては雑草の根を拾い上げ、鍬の柄の上に両手を重ね顎を乗せ、お休みポーズをしつつ考えた。いにしえのお百姓さんは、鋤、鍬を頼りの厳しく、辛い労働を経験してきたのだ。なぜか胸が熱くなった。 「今の時期は、早稲の玉葱、春に収穫できるキャベツの苗を植えたらいい」 近所の野菜作り、花作りの達人が立ち止り、どうにか畑らしくなったのを眺めながら教えてくれた。次に必要なものは肥料である。そういえば、我が家の倉庫には、これまで全く出番がなかった鶏糞が五袋、窒素、燐酸、カリの配合肥料が一袋あった。 好天気に恵まれ、開墾は五日間で終了した。 インターネットで野菜作りの基礎から調べた。 いよいよ玉葱百本、サラダ用の紫玉葱三十本、春キャベツ十本、使い勝手のよい長ネギを植え付けた。 来春にはふわふわのキャベツが、いろいろな姿で食卓に登場し、すき焼き、そしてさまざまな鍋に長ネギが活躍するであろう。 夢見る私は、だんだん欲が出た。もう少し畑を広げ、高菜、蒔き時が制限されない、ほうれん草を作ることにした。 天気を見計らって畑に出た。玉葱が植え付けてある続きの地面に、「エイッ」とばかりに力を入れて鍬を振り下ろした。力いっぱい鍬を引き上げようとした瞬間、腰の骨にただならぬ変化が発生した。 激痛に思わず「ギャーッ」と、ひと声叫び、歯を食いしばり「ウーッ」と声にならない呻きを上げた。近くにあった一メートルばかりの棒切れを支えに、あらん限りの必死な努力と形相で勝手口まで辿り着いた。 こんなとき頼りになるのは友達だ。友人の涼子さんに携帯電話から、SOSを発信した。涼子さんは直ぐに飛んで来て、車を玄関横付けにした。どうにも動けない私を背負って、車に乗せると、一目散に整形外科に運んでくれた。 医院の受付を涼子さんに済ませてもらい、名前を呼ばれるのをジッとひたすら耐えた。あとはタクシーを呼んで帰るからと何度も言ったが、優しい涼子さんは診察が終わるまで待っていると言う。持つべきものは、友達だ。 やがて、「木さあん、どうぞ」と、診察室のドアを開け、看護師さんが顔を見せた。 壁を伝ってソロリソロリと歩く私。看護師さんは見かねて駆け寄る。 「車椅子を用意しますので、そのままで居て下さい」 近くにあった車椅子に、要領よく乗せてもらった。 先生には、孫の啓吾が度々手足の骨折でお世話になっている。私の無様な格好を診た最初の言葉が、「啓吾君のお婆さん、これは典型的な、俗にいうギックリ腰ですねえ」であった。 「どうもそのようですね。どんな治療で、治るまでどれ位掛かります?」 「うーん。レントゲンを撮った結果でしょうが、痛め止めの注射と薬にシップで、完治までおおよそ三週間前後でしょう」 ひと通りの治療が終わった。注射が効いているのか、来た時より幾分楽に感じた。 涼子さんと看護師さんに手伝ってもらい、やっとの思いで車に乗り、我が家に到着。 同じ体勢でいるときは、余り苦痛はないが、少しでも別の動作に移ろうと身体を動かそうものなら、下半身が抜けるような痛みと痺れが襲ってくる。 娘は非情にも、「医者代よりも、青空市で野菜を買う方が採算がいい」と情けないことを言う。価値観の相違が、クッキリ浮かんでいる。決して負けるものか。 こんなに医者の言いつけを守ったことは、過去に例をみない。ギックリ腰の不自由さからは、約一ヵ月間で解放された。 十一月は、二人の婆さんの、二つの叫びで幕を下ろした。 |
◇作品を読んで
いつものことながら、作者の作品は読んでいて実に楽しい。笑い、涙ぐみ、なるほどと感心し、いや、ちょっと違うななどと考えたりする。内容も身近なことが多く、素直に書かれているからだ。使われている的確な言葉がそれを支えている。書き手の喜びや悲しみが伝わってこそ、文章であり作品なのである。 作者は思い付いたこと、残しておきたいことがあると、ともかく書いてみるという。次にはそれをつなぎ合わせる。荒削りではあっても、作品が出来上がる。だから多作である。とにもかくにも、文章は書かなければうまくならない。 実は、この作品の原形は長さとして倍くらいあり、作者には申し訳なかったが,掲載紙面のスペース上から割愛した箇所がかなりあった。 |