文学教室
田井 幸子
平成20年9月18日付け 島根日日新聞掲載
文学教室に通いだして、丸六年になる。 平成十四年の春、島根日日新聞の募集広告が目に留まった。ちょうど子育てが一段落し、自分の時間が少しずつ持てるようになっていた頃だ。ふと気付けば人生半ばも過ぎている。波乱万丈とは言わないが、たくさんの喜怒哀楽で心は満杯状態であった。私の話を気長に聞いてくれるような奇特な人もいない。溜まったものを、何かの形で吐き出す場が欲しかった。 ときどき新聞や雑誌に投稿し、心に風を通してやっていた。短いものでも書き終えれば、達成感がある。掲載されたときの喜びと高揚感は、ぽわっと頬が染まるほどのものだ。一度覚えるとやめられなくなる。麻薬とは縁がないので分からないが、大麻など吸ったあとの気分とは、こういうものかと想像してみる。すっきりと晴れやかでいい気分だ。 とは言え、自己流で書いた文章を読まされるほうはどうかしらと思わなくもない。一度きちんと基礎から学びたい、どこか近くに教室はないものかと考えていた矢先であった。 出雲市駅付近で土曜日の十時から十二時までとある。場所も時間も悪くない。受講料も良心的な金額だ。ただ、ひとりで門をくぐる勇気が少しだけ欠けていた。電話で問い合わせるまでに半年かかった。「いつからでもどうぞ」の言葉にようやく心が決まり、十月から行くことにした。 大事な初日に遅刻した。おずおずとノックして入る。一瞬、間違えたと思った。想像していたような机と椅子がない。学校のように先生と生徒が対面していない。なおかつ生徒が少ない。しかも私より年上とおぼしき人ばかり。 「入ってください。今日はじめての人? ああ、そこのスリッパに履き替えて」と促され、やはりここでよかったのかと思った。 狭くて細長い部屋だ。中央に長机と椅子がある。向かい合って左右に四、五人ずつ腰掛けるようになっていた。正面奥が先生の席になっており、全員を見渡せる。学校と違う様子に緊張が解け、なんだかほっとした。挨拶もそこそこに、空いていた一番端の席についた。 テキストは先生の手作りだった。半年遅れているので不安もあったが、心配したほど難しい内容ではなかった。コーヒータイムもあり、和んだ雰囲気が心地いい。年齢や性別、職業の違う方々のお話を聞くのも新鮮でおもしろかった。何より新しい言葉や言い回しを知り得る喜びがある。 受講生の作品は毎週、島根日日新聞の文学教室コーナー「青藍」に掲載される。今までの作品はだいたい読んでいた。中には本物の小説家と見まがうような作品もあった。私もいつかこんな風に書けるのだろうか、書いてみたいと思った。 十一月、初めての作品を提出した。先生に添削していただき、いよいよ新聞に載せてもらえることになった。それはありがたいことだが、顔写真も本名も出してほしくない。恥ずかしながらペンネームを作った。それが「田井幸子」。幸せになりたい子というほどの意味だ。割と気に入って今でも使っている。 「田井幸子」が歩きだした。と言っても作品の数は三十編に満たない。季節の変り目、衣替えをするように心の引き出しを開けている。宿題も出されず強制もされない。小説でも随筆でも自由に書きたいとき、思いを綴ればいいからだ。そんな未熟な作品に対しても、辛らつな意見や攻撃的な批判はされない。だから続けてこられたのだと思う。 プロを目指しているわけではないから、上達は遅くてもかまわない。怠け者の言い訳に聞こえるが……。 最近、受講者が減って寂しい。六年の間に随分と入れ替わった。ここ二、三年、やめる人はあっても入る人がいない状態が続いている。書きたい人はいるはずだ。自分史がブームとも聞く。私のように、心の中に溜まったものを吐き出したい人にはお勧めだ。忙しくしている人を捕まえて、延々と自分勝手な話をして嫌がられるより余程いい。 場所も時間も変わらない。この物価高にもかかわらず受講料の値上げもない。土曜が都合悪ければ水曜日に来てもいい。仕事をやめた私にとってこんなありがたいことはない。「文学教室」を敬遠しないでほしい。何も高尚な趣味人の集まりではないのだ。「文章教室」「綴り方教室」と言い換えてもいい。(先生ごめんなさい。私の勝手な意見です。) 七年目、多くの人と切磋琢磨してみたい。 |
◇作品を読んで
島根日日新聞文学教室出雲教室は、書かれているように早いものでもう七年目になる。数年前から松江でも開催している。ただ、言われるように受講される方がそう多くはない。あるいは、「文学」という言葉が壁になっているかもしれないが、作文教室であることは間違いないので敷居はすこぶる低い。そのあたりのことが、この作品にはうまく書かれている。 平成十四年から新聞に掲載し続けた作品は、今回で二百九十四である。さらに、総合誌『季刊山陰』にも掲載しているから、受講の方が書かれた作品の合計は膨大なものになる。数冊の作品集ができるくらいだ。書きたい、読んでもらいたいと思われる方のためには最適の場であると自負している。 |