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   親 心 
                       
    平里 葉月                   
                                                                                   平成20年8月21・27日付け 島根日日新聞掲載

 梅雨に入って、本格的に雨が降り出した日、娘が出勤途中で交通事故に遭った。
 今日は雨降りだから、早めに出かけなさいよと言うのに、支度に手間取り、バスに間に合わなかった娘は、自転車に乗って出勤して行った。行ってきます、の声を聞いた後、追いかけて、自動車には気をつけてね、などと注意しないうちに家を飛び出した娘に呆れながらも、もう子供じゃないのだから、親がいつまでも細かいことに目くじらを立てていてはいけないと反省した。
 家族全員が家を出て行ったので、とりあえずコーヒーを飲みながら、まずは掃除をして、それから作文にとりかかりましょう、などと、その日の行動予定を立ててみた。
 また、いっそう雨脚が強くなってきたが、娘はもう会社に着いているだろうから、びしょ濡れにはならずに済んだだろう、と安堵していた。
 さて、行動開始、と思った矢先、電話がかかってきた。
「こちらは○○病院の……」
 どうして病院などから電話がかかってきたのかしら、親戚や知人が入院しているとは聞いていないし、家族の誰かが精密検査を受けていて、結果を知らせてきたのかしら。そんな話も知らない。
「救急外来ですが、……」
 親戚の誰かが急病で倒れたのかしら。
「お嬢さんが、交通事故に会われて、こちらへ来られたのですが、……」
 心臓をわしづかみされる気持ちとはこのことだろう。身体が硬直してしまい、「えっ?」と言ったまま黙ってしまった。
「転んだだけのようです。会話ができますし、擦り傷程度なので歩けますよ」
 電話口の向こうでも私の動揺がわかるのか、怪我の軽さを強調してくれた。おかげで、まもなく、金縛り状態が解けた。
 大丈夫と言われても、実際に娘の姿を見るまでは安心できない。とりあえず、勤務中の夫に電話をした。今日は大事な用があると言っていたが、仕事より、わが娘のほうが大切である。緊急事態なのだ。
 急いで身支度を済ませて出かけた病院は、家からすぐ近くなので、連絡を受けて三十分もせずに着いた。
 受付で救急外来の場所を訊き、表示を探してきょろきょろしながら歩いていると、ストレッチャーが前方の角を曲がってきた。邪魔になってはいけないと隅へ寄り、ひょいと見ると、横たわっているのは娘ではないか。真っ白な顔をして目を瞑っている。医師は電話で、軽い怪我だと言ったではないか。私をあわてさせないための嘘だったのか。途端に鼓動が激しくなった。
 娘に呼びかけると、ストレッチャーを引いていた女性が、私に気付いた。 何ともないはずなのに、腹痛がひどい、と訴えるので一応MRIを撮ってみる、救急外来室に担当の医師がいるので、詳しく訊いてくれとのことだった。
 担当医師に会って、事故の様子と、娘の状況を聞いた。直進する娘の自転車が横から来た軽トラに接触して、転んだらしい。腹を打った覚えはないが手足の傷より痛む、というので、MRIを撮るとのことだった。
 頭と内臓が無事であれば、手足の皮膚が少々破れることなんてかまわない。体内のどこかが出血していたらどうしよう。心臓が高鳴り、手足が冷たくなる。
 診断結果を待つ間に、娘の勤務先へ連絡しようと、公衆電話室へ行った。はて、電話番号は? 電話帳で調べよう。手が震えて、ページがめくれない。やって来た夫に電話を掛けてもらった。いざとなったら、役に立たない母親だ。情けない。
 結局、内臓に異常は見つからなかった。たぶん、事故の心理的ショックで腹痛を起こしたのだろう、とのことだった。
 ほっとしたら、血行が良くなったらしく、手足の冷えが収まった。危うく、私までがベッドを必要とするところだった。
 しばらくすると、痛みはいくらか和らいできたようだ。目を開けた娘はニカッと笑い、私は、声を出さずに口の格好をした。
「ばーか」
 いつも、気をつけなさいと言っているのに……。自動車と喧嘩したら、自転車が負けるに決まってるじゃない。たとえこちらが悪くなくても、痛い目にあったら、損でしょ。だいたい、雨の日に、自転車で出かけるのが無茶なのよ。日ごろから早くしなさいって言ってるでしょ。早く支度ができていれば、こんなことにはならなかったのに……。大人になっても幼稚園のときとちっともかわらないんだから……。
「落ち着かれたら、点滴をはずして帰ってもいいですよ」
 医師に言われて驚いた。点滴を途中で止めても良いのだろうか。
「点滴の成分は何ですか」
「水ですよ」
 頬が緩んでしまった。
 なんだ、薬ではないのか。だからいつでもはずせるのだ。娘自身、点滴をしたら気が楽になった、と後で言っていたから、水でも効用はあるらしい。
 部屋を出て、医師に挨拶をしていたら、膝の絆創膏を張った部分から血が滴り落ちてきた。廊下のベンチで、手当てをやり直してもらった。血が止まったら絆創膏を外してよいでしょう、とのことだった。
 たいしたことでなくて良かったと胸をなでおろした。腹痛のおかげで、精密検査をしてもらい、内臓が何ともないことも確認でき、内科専門医が救急担当でラッキーだった、とこの時は思った。
 ところが、たいしたことないはずの膝の怪我がなかなか治らない。三日たっても血が止まらず、五日たっても瘡蓋ができない。娘は献血できるほど健康な血液の持ち主だから、血小板不足は考えられない。異常である。
 足の内部でどうかなっているのだろうか。打ち方がおかしかったのか。傷口から変なものが入ったのか。
 娘の話によると、内臓の検査をしたあとになって、初めて、傷の手当をしてもらった。しかも、膝だけで、手の小さな傷は無視され、掌に入り込んだ石は自分で取除いた。
 怪我については、きちんと診てくれていないではないか。
 救急担当の医師が内科専門だったのは、アンラッキーだったようだ。外科や整形外科専門だったら、的確に診断してくれただろう。
 見た目は小さいが、傷は深いのかも知れない。高温多湿のこの時期、細菌が繁殖しやすい。膿が出ているとも言う。大事になったら大変だ。医者に行くよう勧めるのだが、娘は、怪我の場所が膝で、足を曲げ伸ばしするから治らないと主張する。昔、息子の怪我で、瘡蓋ができる傷とできない傷があるのを知った。どうも、このたびの娘の傷は、瘡蓋ができない方らしい。膿んでいるなら、抗生物質も飲まなければならないだろう。自力で治る限界を超えている。
「お兄ちゃんが怪我したときね……」
 具体例を挙げて説得した。
「でも、忙しくて、仕事を休めないもの」
「怪我がひどくなって入院でもしたら、長く休むことになるでしょ。かえって皆様に迷惑よ」
「わかったよ」
 しぶしぶ、勤務中に会社の近くの病院へ行くことに同意した。
 いつも必ずスカートをはいている娘が、事故以来、パンツ姿の上、びっこを引き、膝を曲げるたびに、「いててて」などと言っているので、会社の人たちも心配してくれていたらしい。
 対応した事故相手の保険会社の人も、大げさなほど娘を脅し、しっかり検査を受けて、きちんと治すように説得してくれた。歩けても、一応レントゲン検査を受けるようにさえ言ってくれた。
 新たな病院での治療は、全治二週間と診断されたが、一週間ほどで、傷口は塞がった。早く専門医のところへ行かせれば良かった、と反省している。もっと、しつこく勧めれば良かったと思う一方、かえって反発したかな、などとも考える。
 事故以来、しばらくはバスで通勤していたが、怪我が治り、雨も降らないと、また自転車で出かけて行くようになった。今までより多少は早いものの、すこしずつ、家を出るのが遅くなってきている。今年の梅雨は雨が少なかったから、バスで行くことはめったにない。バスで出勤するとなると、かなり早く家を出なければならない。
 今朝も、なかなか出かけて行かない娘に向かって、叫んでいた。
「今日は、お休みなの?」
 お願いだから、親の心の平和のために、早く仕度を済ませて出かけてよ。

◇作品を読んで

 朝のゆったりした空気が、不意の電話で破られた。だが、その時点では緊急事態とは分からない。直ぐに、家族の事故であることが判明する。穏やかさが緊張に変わる流れが、うまく書かれている。怪我はさほどのことはないようであった。だが病院に着くと、また事態は反転した。緩急を心得た文体が、その様子を盛り上げている。  
 気持ちの動揺、状況の急激な変化、緊迫感などが盛り込まれた文章の文体は、どちらかといえば短い文の積み重ねが効果的かもしれない。内容によって文体が変わるということでもある。作者は、そのことを承知の上で書かれた。タイトルの「親心」は、作品の底を流れている偽らざる気持ちだろう。