いつか浜辺に椰子の実を
大田 静間
平成20年7月31日付け 島根日日新聞掲載
「土曜日のテレビで放送される、週刊子どもニュース≠チての知っていなさるかねぇ」 隣家のおじいさんに尋ねられた。私も、早い夕餉を摂りながら観ていることがある。 「番組の終わりにね、童謡の歌詞の字幕と情景を映しているのだけれどねぇ、あれは子ども向けの放送じゃないよ」 「ほう――」 私は首を傾げた。 「私たちには、懐かしい歌ばかりなんだがねぇ、子どもたちには、詩の意味も、当時の様子も分からない。子どもの母親だって同じだよ」 「そういうもんですか」 「孫がぇ、母親と一緒に観ているんだが、私に聞くんですよ」 ――あした浜辺を さまよえば―― なぜ、あしたなの? なぜ、さまようの? 「こうなんです」 弱り切っているおじいさんが、気の毒になった。 その日は土曜日であった。どのような歌が放送されるのか、私は興味が湧いた。 島崎藤村作詞の『椰子の実』だった。 ――名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実一つ―― 今、隣の家では、おじいさんがどんな質問責めに遭っているのだろうか。 名も知らぬ遠き島ってどこ? 椰子の実だけが、どうしてたった一つなの? 想像すると、可笑しかった。 歌詞の字幕と一緒に、渚に椰子の実が一つ映っている光景は、私にも異様な感じがした。 子どもたちは、今やどこにも見られない不自然な映像から、何を感じ取るのだろうか。 これは大人に向けた教育番組なのだろう。そう思うと納得できた。このような映像は、半世紀も昔にあった浜辺の風景である。 元の姿が再現できるまでに、半世紀はかかるのではあるまいか。そして、いつの日か、子どもたちが浜辺を歩き、波打ち際で漂うたった一つの椰子の実を見つけた時、われもまた 渚を枕 孤身の浮寝の旅ぞ≠ニいう詩情が心に染みてくるのではなかろうか。 翌、日曜日の朝、散歩帰りの隣のおじいさんと顔を合わせた。 「昨日のテレビ――。じーんとしました。昔の景色に出会えましたから」 おじいさんは潤んだ目をして、そう言った。 藤村が甦るのは、いつの日のことか……。 |
◇作品を読んで
未来の環境に憂いをいだいている作者は、そのことを題材にして書いた。しかし、出来上がってみると、いかにも「投書」という感じで、面白くない。読者に読んではもらえないし、共感は得られないと思った。そこで、ある場面を設定し、会話文を取り入れることで柔らかさを出そうとしたのが、この作品である。 私と隣人との会話から書き出し、島崎藤村の詩を生かしながら、最後は再び元に返って、おじいさんとの会話で終結した。 投書のような意見文は得てして押しつけがましくなりがちだが、その内容をある日の生活の断面として示した着眼がよい。 「いつか浜辺に椰子の実を」というタイトルには、作者の願いが込められている。 |