幸福の木
浅尾大二郎
平成20年7月10・17日付け 島根日日新聞掲載
夜の空を見上げた途端、顔にまとわりついたのは、女の長い髪にも似た晩春の雨だった。ミート≠ニ書かれたプレートがぶら下がるスナックのドアを押すと、右手にあるカウンターの中からママが困ったような顔を見せた。清二は、何? と目で聞いた。まずいわよ――ママが片目を閉じてみせる。 ママの目の先を追っていくと、左手奥にあるボックス席に二人の女、一人の男がいた。女のうちの一人は紀世だった。他の客はいない。 紀世は三年前まで、清二の妻であった。ミート≠ナ知り合い、直ぐに結婚したのだが、紀世が看護師として勤めていた国立出雲病院の医師と浮気をしたことが分かって別れたのだ。というより、遠因は清二にあった。その頃、父から引き継いだ造園業がうまくいかず、紀世を放ったらかしにして荒れた酒ばかり飲んでいたからだ。 清二は、ドアに近いカウンター席に座った。ママが、棚から清二の名が書かれたスコッチのボトルを引き出した。 背中に流れる長い髪を右手で払い上げながら、紀世が視線を送ってきた。清二は曖昧な笑いを返した。笑っていいのか怒っていいのか分からなかった。ママは、気詰まりがあからさまに見てとれる笑いを浮かべて紀世と清二を互い違いに見ている。紀世は、連れとの話の中に戻っていた。 「ママ、ロックにしてよ」 いつもなら水割りである。ママがやはりというような顔をして小さく言った。 「偶然ね、一時間ほど前に紀世ちゃん……来たわ。あなたのボトルを見付けて、まだここに来るのって聞いたわよ」 「三年になるな、別れてから。まさか、あいつとここで会うとは思わなかった」 「あいつ……はないでしょう。あれだけ仲が良かったのに」 清二は、ボックス席の紀世に目をやった。待っていたような目が頷いたように見えた。清二は、ちょっと左手を挙げた。ママが、ふっと笑った。 午後八時を過ぎている。五人連れの男が入ってきてカウンターに座ると、ボックス席が遮られて見えなくなった。 「ママ、俺達、帰る……」 潮時だと思ったのか、紀世達がドアに向かって歩いてきた。清二は振り向きもせず、黙ってグラスを手にしていた。 「ちょっとママに話があるから、私、あとから帰る――」 紀世の声がし、そうか、じゃあ、と言って男と女は出て行った。 「お久しぶりね。隣に座っていいでしょ?」 以前のように長い睫毛が、瞳を大きく見せている。紀世は歳が一つ下だから、三十三になるはずだ。歳には似合わないと思うような短いスカートから白い腿が覗いていた。 「飲むかい?」 言い終わらないうちに、ママが素早く水割りを置く。紀世が胸の前でグラスを上げた。 「俺、歳……取ったろう」 「ううん、そうでもない。元気そう。それより、あの時はごめんなさい」 「いいさ、お互い様だ。それより何をしてる?」 「あれから直ぐに病院を辞めて、いまは介護施設でお年寄りの相手……。疲れるわ」 疲れるのは仕事のほかに男のことがあるからだろうと言ってみたかったが、のみ込んだ。 「どうしてここへ? まさか、来てるとは思わなかったよ」 「さっきの二人は施設の職員なの。誘われちゃって……。断れないでしょ? あなたに会うかもしれないから嫌だって言えない」 新しい客の相手をしていたママが戻ってきて、空になっていた水割りとロックのグラスを取り替えた。 「仲良くやってるじゃないの、よりを戻したみたい」 ママが言い、紀世と清二は顔を見合わせて笑った。 「紀世ちゃん、きれいになったわ。清二さん、今になって惜しいと思うでしょう?」 言われてみれば、そうだった。確かに以前とは格段の違いだ。 「それで、どうしてる?」 「だから施設で……。あ、別れたわ。だからお一人様。あなたは?」 「俺も……」 そう――と言った紀世の目が誘っているように思えた。 ほかの客の相手をしていたママが、二人の前に戻ってきた。カウンターに躰を預けるようにして囁いた。 「よりを戻すの?」 清二は、まさか――そう言いかけたが、危うく押さえた。そうではないと言ってしまえば、紀世とそれきりになりそうだった。 「今夜のお酒、おいしいわ」 紀世がすかさず言った。別れた男と一緒に飲む酒が美味いとは、その気があるのだろうと清二は思った。グラスの縁を越していた氷が、カチリと小さな音を立てて沈んだ。コースターにMEET≠ニ店の名が大きく印刷してある。 「独りで暮らしてるのか?」 おいしわと言った紀世の言葉が、どんと背中を叩いた。訊きたいことだった。 「どうして、そんなこと聞くの。さっき言ったでしょう。別れたって」 「そう……か。どこで暮らしてる?」 「知りたい?」 「まあね」 紀世は天井を見上げ、ふっと肩で息をした。 「独り暮らしのアパートよ。勤めから帰るとね、ドラセナ・マッサンゲアナを見ながら、それこそ一人でお酒を飲むの――」 ドラセナ・マッサンゲアナか……と清二は呟いた。幸福の木≠フ学名である。造園業が仕事だ。それくらいは知っている。名前からして縁起がよく、幸せにという願いを込めて贈り物に使われる観葉植物である。管理がしやすいこともあってポピュラーだ。 「幸せになりたくて、幸福の木を見ながら酒を飲むか。いいじゃない」 「憶えてるでしょ?」 「何を? 君と飲んだことか?」 そうなの――紀世の声が沈んだ。水割りのグラスを持ち上げ、一息に飲むとカウンターに置いた。カツンと大きな音がした。ママが横目で見たのが分かった。 「ばかね、わたし……」 「何が?」 「いえ――別に。どうでもいいことよ」 「はぐらかすなよ」 紀世の目が光った。泣いているようにも思えた。 「俺達、幸せになろうなって、あなたが幸福の木を呉れたのよ。別れることになる半年前だった」 「……」 やっと気が付いた。紀世の目が濡れたように見えるわけに。 「そうよね、別れてから三年経つもの。憶えてるわけないよね」 「いや違う。思い出した。うちで売ってた一番高いやつ」 「いいの、もう。高いとか安いとか、そんなことじゃない」 「……」 清二は、スコッチのロックを飲んだ。苦い味だった。 「わたし……。そろそろ失礼するわ」 握りしめていたグラスが熱くなっていた。 紀世は、ドアノブに手を掛けて言った。 「さよなら」 三年前、別れるときも紀世はそう呟いたのだ。ドアが閉まり、紀世の背中が消えた。 |
◇作品を読んで
作者は誘われて、ある夜、出雲市今市のスナック『集合』というところへ行った。ママは小柄で着物がよく似合っていた。以前、一度来たような気がするが、店の名も記憶にない。。 「ここは二度目ですよ」と連れの人が言い、再会≠ニいう言葉が浮かんだ。集合≠ニいう店の名も面白い。そして、この物語になった。――というのは、作者の話である。 物語というのは、何かの下地はあるものの、全て書き手の想像、妄想から生まれる。本当のことを書かなくてもよいので、こんなことがあるかもしれない、こうありたいと考える。 この作品は長いので、2回に分けて「青藍」に載せた。第1回の終わりは、「そう――と言った紀世の目が誘っているように思えた。」のところである。「誘っている」という言葉が、次はどうなるのだろうという読者の期待を誘う。連載物する場合の区切り方に使われるセオリーである。 文学教室参加の方が第1回までを読まれ、「幸福の木」というタイトルからすれば、男と女が幸せになりそうな結末が予測される。たが、おそらく逆だろうと言われた。 小説の書き方の一つをいみじくも指摘されたということである。 |