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   私の安息日 
                       
    和泉さとこ                   
                                                                                   平成20年5月8日付け 島根日日新聞掲載

 とうとう首が回らなくなった。首筋から肩がパンパンになっている。ひどい肩こりに捕まったようだ。そのうえ朝方の花冷えが喉を直撃したのか、咳まで出る。
 肩こりには我慢出来ず、近くの診療所で電気治療をしてもらう。噛みついたようになっているこりは、一回の治療では期待したような効果はないようだ。ならばと、使い捨てカイロを首に巻き付けてみた。そして今日は私の安息日と決めた。
 昨日よりも少しばかり暖房を落とした居間からは、うしろ庭が見える。椿、れんぎょう、ぼけ、桃、競うように咲いている。木々の根元に咲く水仙も、しっかりとした花を付けている。いまどきに咲くクリスマスローズは、名前を恥じるように花びらを下にして、ひっそりと咲いているのも可愛い。
 暖房を片づけるには未練があるのに、土の中では地温が上がり、春を待つ緊張から期待に変わっていることを教えている。
 縁側に回れば、ガラス越しに届く陽気が体を気だるくさせる。籐椅子に体を預け、首から肩に回るカイロの温かさにも身を委ねる。
 東京から彼岸めがけて帰郷した二人の妹が、「山に春の芽ぐむ勢いを感じる」と飽きずに眺めていた山々。あちらこちらで白いコブシが咲き始めた。
 フルタイムの仕事を持ちながら、姑の介護をしている二人。何の予定もない時間を過ごさせてやることが一番のもてなしと思えば、声を掛けるのも憚れた。一番下の妹とは六歳違いだ。だからだろうか、子供の頃、あまり話したり遊んだりした記憶がない。三歳違いの妹は、活発で羨ましかった記憶がある。三人三様の時間を経て、共に五十代になり気が付けば一番気持ちの通じ合える関係になっていた。
 縁側の日溜まりと、カイロの温もりに溶けてしまいそうな気分の中で、二人並んで墓参りをする姿が浮かんだ。二人とも後ろ姿がよく似ている。そして肩の辺りが母と同じだ。ついでに言えば「姉妹同じような咳をする」と、よく母に言われる。
 ここに帰るとほっと出来る。そう言って、芽ぐむ春の気配の中に立ち止まる二人。なぜか、その後ろ姿が今頃になって気になる。
 ぱらりと開いた本の中に、随筆家の岡部伊都子の文を見付けた。
「なぜ、春に愁うるのか」と問いかけながら、「孤独は個人の人権である。さびしさを抱きしめて、さびしさからのエネルギーに灯をともして」と励まし、「否応なく咲きあふれる力そのものが、とどめようもなく散る力でもある」と、せつなさを教えてくれる。
 静まり返るたたたずまいの中で、離れて暮らす二人の存在を身近に感じる。
 それぞれの、子供たちは自立して行った。そして、広くなった家の中で三人とも、親の介護まっただ中だ。パートナーの定年など、家族の関係も今でとは違ってくるだろう。
 理由のない心細さに落ち込むことがある。でも、三人でなら……お互いの気持ちに寄り添い、支え合える。そんな気がする。
 あたりが華やかにいきぶき浮き立つほどに、その後のせつなさを覚悟する。
 この春の愁いを生きよう。

◇作品を読んで

 山あいの町に住む作者は、春の日溜まりの中で庭を見ながら、三人姉妹の姉として二人の妹のことに思いを馳せた。
 肩に当てたカイロと春のぬくもりは期せずして重なったと思えなくもないが、そうではなかろう。その二つは、綿密に計算された呼応である。
 更に作者は、文章の高まりに追い打ちをかける。ふと手にしたのは、岡部伊都子の随筆集だった。その一文に、二人の妹を重ねて思いを語る。この日、特別な出来事があったわけではなく、記憶の中に漂った時間をさりげなく書いた心に沁みる作品である。
 作者が、この作品を書き終えたのは四月初旬。生活の機微や日本の伝統美などを題材に、数多くのエッセーを書いた岡部伊都子さんは、四月二十九日に亡くなった。