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   引き分け
                       
    田井幸子                   
                                                                                   平成20年3月6日付け 島根日日新聞掲載

 我が家は大人ばかりの五人家族である。会社員の夫、長男、私と、高校生の娘がそれぞれ弁当を持って行く。母はひとり、家で昼食を済ます。
 主食は、米である。平日はだいたい八合炊くとちょうどよい。ところが土日、祝日ともなるとこれがまったく予想がつかない。朝起きて来ぬ者、遊びに出たまま帰らぬ者、パスタが食べたい、パンがいいだのと騒ぐ者。もう慣れてしまったが、余ったご飯を翌日に持ち越すのはいやなので、六合ぐらいに減らして炊くようにしている。
 それでも残ることがある。反対に足りなくなるときも多々ある。なければないでダイエットになっていいわぐらいに考えるのだが、昭和一桁生まれの母は、妙にソワソワしだす。どうも米粒がなくなると戦中戦後の物がない時代を思い出して不安になるらしい。
「今夜、ご飯が足りんみたいだけど、どげする? 三合だけでも炊くかね」
 決まってこういう。たいがい折れるのは私のほうだ。かくして、また翌日に持ち越す。

 年末年始、二人の娘が帰省し、我が家は久しぶりに七人家族に戻った。お正月でお餅はあるし、人の出入りも激しく、御飯(まま)炊き女の勘は常にも増して狂った。余ったり足りなかったりで、
「あんたは本当に、加減ってものを知らんねぇ」
 母のご機嫌がいよいよ悪くなる。
 正月二日、上の娘が早々に引きあげ六人になった。勤め人も今年は正月休みが長いため、六日まで家にいる。お弁当をこしらえる必要もなく控えめに炊いていると、毎日が戦後状態となった。(といっても、一食がうどんやそばに変わるだけだが)
 今日も足りないという日、思いついて貰い物の即席鯛めしを作ることにした。贈答用の品だから不味くはないだろう。これなら母も文句は言うまい。三人分の加工米に出し汁と具材が入っている。正真正銘の鯛の身だ。おいしそう。
 夕ご飯の時間になった。
「白いご飯と鯛めしがあるけど、どっちにする?」
「タイめしでいいわ。お母さんも仕事やめて無職になるから節約したね」
 はっ? 変なことをいう。さらに長男が、
「お母さん、タイめしは固くてパサパサしてるから、チャーハンにするといいよ」
 えっ? タイ米と勘違いしている。
「タイ米なんていってないよ。た・い・め・し――だよ。お魚の鯛」
「なぁんだ。じゃあ、要らない」
 子ども三人、口をそろえて即座にいう。タイ米にも劣るというのだろうか。結局、主人と母と私が食べることに。インスタントといえども、鯛は鯛。おいしかった。

 鯛めしは、三対三で辛うじてタイ米と引き分けた。飽食日本、平均的な家庭にて。

◇作品を読んで

 訓が同じものは「異字同訓」だが、同音異義語は、「同じ音読」をする言葉である。「たい」を辞書でみると、作者の名である「田井」などの熟語は別として、「鯛」「体」「堆」など十を超える。「たい」に関わる行き違いのエピソードが、面白く書かれ、読み手は自分も経験した同じようなことを思い出して共感する。
 農林水産省の統計によれば、昭和三十五年以降の米の自給率は、平成六年の百二十パーセントを最高に、以後、九十パーセント台に落ち込み、平成十八年度は九十四パーセントである。米離れも進み、一人当たりの年間消費量は戦後の最低レベルと同じらしい。食料全体の自給率も減り続け、ほぼ六割が輸入品である。
 作者は、作品の結びにある「飽食日本」の行く手に、「食料生産力の限界」と「地球環境問題」を見ていたのかもしれない。