お 守 り
鶴 見 優
平成20年1月17日付け 島根日日新聞掲載
メールとマナーモードの電話が二回、三回と慌しく、急かすように携帯に入っていた。 気がついたのは夜の十一時過ぎ、忘年会から帰宅した時である。 運動と美しいプロポーション(うっそぉ〜ッ)を維持するために習い始めた社交ダンス教室の忘年会であった。 総勢十七名は熟年から初老期までの男女であり、決して世間の目を引くような年頃の集まりではない。 領収書を書きながら、料亭の女将が言ったそうだ。 「だから、(ダンスをやってるから……) 皆、素敵な人達ばかりなんですね」 感心されたわと、嬉しそうに話す幹事さん。 二次会の喫茶店では、女将のお世辞であったろうその言葉に、それぞれがわが事のように喜び、「そうだ、そうだ、もっともだーァ」とばかりに、ひとしきり盛り上がったのである。 そんなこんなのお喋りが長引き、遅い帰宅になってしまった。 メールと電話は信代からであった。夕方から何回もかけてきていた。不吉な予感がした。 「恵子が、亡くなった……」のメールだった。 「エーッ……」 息を呑んだ。 信代も恵子も六年前、同時期に手術を受けた患者仲間である。恵子だけは、調子が悪く、勤めを続けながらも入退院を繰り返していた。 恵子は、いかにもお嬢さん育ちという雰囲気を持ち、お洒落でセンスもあり、美人で気配りの良くできる社交的な四十代の女性であった。 入院当時の同室者は、四十代から七十代と年令幅はあるが、一緒に珈琲を飲みに出かけたり売店に行ったり、共に行動することが多かった。 大病を患った者同志の暗黙の『絆』のようなものであり、命が危ぶまれた者の恐怖から芽生える連帯感であったのかもしれない。 偶然であったが、恵子の夫は以前、私の息子(県職員)の上司であったことが分かった。 息子はその上司から、恵子の自慢話をよく聞かされたと言っていた。 「美人で、頭が良くて、優しくて……」 妻の自慢をする人はいると思うが、息子が印象深く覚えていたのは、よほど(ぞっこん)の上司であり、愛情の深さが伝わったからに違いない。さもありなん、と思える恵子であった。 最愛の妻を、こんなにも早く失ってしまった上司の落胆ぶりは、想像にかたくない。 信代は五年前、『女性だけの患者会』を立ち上げ、術後患者の精神的なフォローを目的に、支援活動をしている。従って、当時からの患者の動向をよく把握していた。 信代は、恵子にも患者会への加入を勧めたが、あまり乗り気ではなかったと残念そうに言っていた。 「同じように手術を受けた仲間が、元気にしている姿を見るのは、残酷なことかもね」 「無理に関わりを持とうとしないほうが良いのかも……」 「そうかもねえ」 「じゃ、そうしましょうか……」 信代と私は話し合い、そう決めた。もちろん、一抹の寂しさはあったのだが……。 以来、彼女の心理状況を慮る余りに距離を置くようになった。しかし、心の片隅にはもどかしい気持ちを抱きつつ、恵子のことが気にかかってはいた。 二〇〇七年が終わろうとする間際に、恵子は何度目かの入院をした。そして一週間後、あっけなく逝ってしまったのだ。 早過ぎる別れは、さぞ無念であっただろう。それ以上に、残された者の悲しみが癒える時が来るのだろうか。 恵子は六年前、私達に八重垣神社の『お守り』をくれた。 彼女も、祈るような思いで神仏に救いを求めたに違いない。 入院以来、以前とは格段の差で、神仏の存在が私にも偉大なものとして身近に感じられるようになった。神は望まれれば、いつでも、分け隔てなく受け入れてくださる。悩める者はその身を神の懐に委ね、心の平安と落ち着きを取り戻そうとする。 同室者にまで心配りをする優しさと、気丈に見えた恵子の心根に共感した私は胸を熱くした。御神体である『お守り』の有難さがよく分かった時であった。 お守りは、今も恵子の分身のように携帯に寄り添い、私の身の安全を守っている。 恵子が求めたそのお守りは、恵子を一番に守らなければならないものではなかったか。 |
◇作品を読んで
仲の良かった友人の思い出である。冒頭に、緊急な連絡を知らせる携帯が登場した。読み手に、何だろうと思わせる緊張感を持たせており、いい書き出しである。 続いてダンス教室受講者の話が書かれ、そして友人の死を知る。忘年会で楽しんだこととは裏腹で、作者は臍(●ほぞ)を噛む。そのあたりの思いが、忘年会のエピソードを入れた理由だろう。 早い死の友人を悼み、残されたお守りに思いを馳せる作者の気持ちがよく書けている。友人とお守りを重ねた終末もよい。 作者が文学教室に参加されてから二年が過ぎ、幾つかの優れた作品が作者の手元にある。文章というものは、書けば書くほど上達するということがよく分かる。 |