俳人 山内曲川
鹿田 梨香
平成19年9月20日付け 島根日日新聞掲載
山内曲川は、江戸期の終わりから明治時代にかけて、俳諧の道を広めた松江の俳人です。略伝を書いてみました。 山内曲川は、文化十四年、一八一七年の二月二日、島根郡松江で紙屋をしていた山内長右衛門の長男として天神町で生まれました。 曲川は十三歳の時、両親に死別し、松江の西川津村にあった母の実家に引き取られ、野津嘉一郎として育ちます。 天保八年、二十歳の時、再び天神町に帰り、山内の名を名乗って骨董商を始めました。その仕事がら茶の湯や茶道具の鑑定も学び、俳諧と茶の湯という風流の道を歩み始めたのです。そのことが基礎になり、茶の湯では、後に、三斎流の師匠にもなったのです。 その頃、京都に住む、俳人の荒木萬籟と親しくなり、文通を重ねるようになりました。そのこともあって、曲川は俳諧の道を極めようと考えます。 努力を続ける曲川は、自分の一生をゆだねるのは、俳諧と茶の湯であることに思い至りますが、骨董商の傍らでは家族に迷惑をかけると考えたのです。 三十歳になった年の暮れ、曲川は妻と共に茶を点てながら、自分が進む道は、俳諧しかないことを、それとなく語り、別れを告げました 三日後、曲川は、妻を捨て、家を捨て、折からの吹雪の中を両親の位牌を懐に、誰にも知られることなく、飄然と松江を後にしたのです。 曲川が目指したのは、和歌山県の北部、高野山でしたが、願いである仏門に入ることは許されませんでした。仕方なく曲川は、両親の位牌を総本山金剛峰寺に納め、京都に向かい、以前から慕っていた荒木萬籟の門に入ったのです。萬籟の教えを受け、懸命に俳諧の道に励んだ曲川は、鼎室という名を贈られるほどになります。 曲川は、より深い俳諧の道を目指して、江戸に出ます。そして、多くの門人が曲川の元に集まったのです。三十五歳の曲川は、松尾芭蕉が作り上げた手法である「蕉風」を確立しようと、奥州、東北地方へ旅立ち、行く先々で、多くの句を詠みます。 江戸の日本橋を詠んだ句、越して来た箱根はみえず富士の山=A日光の中禅寺湖では、魚ひとつとらぬ湖水や秋のくれ=A春の句に元日の富士はしらねと東山≠ネど、出雲から京都へ、そして江戸から奥州へと行脚した曲川の姿が、うかがえます。 松江を出てから十二年、曲川が古里へ帰って来たのは、安政五年、四十一歳の時でした。本家の山内佐助宅の二階に住まいをし、釣年庵と名付けた庵を建て、松江の人々に、俳諧と茶の湯を教えます。 みたまはせ楽山の花おうの湖=A故郷や妻はなけれど更衣≠ネどの句を詠み、俳諧と茶の湯、一筋の暮らしを始めました。 曲川は、俳画と呼ばれる俳諧的な味わいのある日本画も得意であり、また、本阿弥光悦が始めた光悦流の書に優れていました。 明治二十六年、喜寿の年になった曲川は、松江の北田町にある普門院に芭蕉堂を建て、松江の名匠、荒川亀斎の作である松尾芭蕉の像を安置しました。 寺町の全龍寺境内には、何ひとつ見えねど露の明りかな≠ニいう句を刻んだ自然石を建て、松一本を植え、永眠の場所にしたのです。 俳人として多くの門人を育て、古里松江に松尾芭蕉の流れをくむ俳諧の道を開いた曲川は、明治三十六年五月十九日、風流の道を極めた八十六歳の一生を終えました。 曲川が亡くなってから三年後、松江の南の郊外、床机山山頂に、松島も見しが故郷の湖涼し≠ニ古里松江の思いが込められた句を刻んだ句碑が建ちました。曲川の命日の前日、明治三十九年五月十八日のことでした。 |
◇作品を読んで
文学教室参加のある方から、「自伝ではない、他の人の伝記というものは、どんなふうに?」と聞かれた。書き方のきまりはないが、特に存命中の人物には注意が必要である。 故人の場合も同じことで、信頼性の高い資料を使い、正確な記述をすることがまず大事ではないか。資料は文献のそれもだが、できれば、その人物についてよく知っている人、関連する場所などに直接の取材を試みることである。そうするうちに、書こうとする人物に愛情が生まれ、それが文章に表れ、よい伝記になるはずである。 質問された方は人物を特定されてのことではなかったが、郷土に関係のある人物を書くことによって、古里への愛着も深まるという効果もありそうだ。 |