Aveyron
阿井 望
平成19年7月11日付け 島根日日新聞掲載
夏の季節が目の前だった。梅雨の名残を惜しむように突然降ってきた雨は、熱気の澱みが漂っている夜の暗い地面を激しく叩いた。白い水滴がその熱気を舞い上げ、ネオンの輝きを受けながら跳ねている。 生ぬるい雨に濡れた梨果は、アパートにたどりついた。三十を三つ過ぎた年齢だからでもあるまいが、深夜までの仕事は疲れる。梨香は出雲市にある通販会社の苦情処理係だ。午後からのシフトで夜勤が多い。 ベージュ色のドアの前に立ち、額に気味悪く貼りついた長い前髪を左手でかきあげた。濡れた手でポケットからキーを取り出し、ドアを開けた。とたんに、居間に置いたテレビの画像から鮮やかな色彩が消え、ザーという音がしてモノクロがキラキラ輝く画面になった。午前二時の深夜番組が終わったのだ。 会社を出る前に、携帯電話のホームセキュリティラインを使って、エアコンとテレビがオンになるようにセットしておいたのだ。一日中部屋を締め切った熱気と饐えたような匂いはなかった。仕事を終えてアパートに帰りついたときの侘しさを感じないようにと、警備会社に依頼して付けた自動装置である。 梨果は、このシステムに満足していた。できれば、ドアを開けたときに、両手を広げて迎えてくれる男が欲しかった。 濡れた服を脱ぎ捨て、熱いシャワーを浴びる。張りのあるピンクの肌に湯の粒が大きくはじけた。一日の疲れが体の中から抜けていく瞬間が好きだった。仕事から別の世界に入り込むための儀式だ。 黒いレースのショーツだけを身に付けた梨果は、冷蔵庫から出した缶ビールを手にしてパソコンの電源を入れた。帰ってからの数時間、パソコンの前で過ごす。仕事を離れた別世界で漂う時間が好きだ。キーを叩きながら、ワインや缶ビールを少しばかり飲む。悦楽の刻である。 メールソフトのAL-Mailは、メールが一通あると伝えていた。 「あ、あのヒト……」 梨果は呟き、缶ビールを一気に喉へ流し込む。肉を切られるような鋭い冷たさが、胸の中を通り過ぎていく。 あのヒト≠ヘ、別世界での彼である。名はアヴェロン。本名は知らない。 Aveyron――フランスのパリ郊外の地名だ。梨果がその名の意味を聞いたとき、「ボクは野生児だからサ」と返事を寄越した。だが、それがどう地名とつながるのか梨果は分からない。 アヴェロンという文字を画面で初めて見たとき、梨果は、宇宙の果てにも似た遠い世界に生きる逞しい若い男を想像した。 メールのやりとりをするようになってから半年になる。一度もオフはない。 ――今日も遅かったようだネ。若い女の子が毎日遅くまで仕事して。無理しちゃダメさ。体こわすよ。早く寝なさい。アッ、そうそう、君の誕生日に着くようにと思ってイイもの送っといたから。住所が分からないんで、駅南町の中央郵便局留めにしてあるからね。オヤスミ―― メールの入力時間は、午前一時になっている。 「ナーンダ。アヴェロンだって遅いんじゃん」 若いと書かれたせいでもないが、梨果は嬉しかった。会ったことはないものの、いつの間にか、それも少しずつアヴェロンの顔や仕草、低音で話す声を作り上げていた。 「会ってみたいな……」 激しい雨音のせいだったからかもしれない。梨果は突然そう思った。 七月の、雨の日曜日。梨果は、葡萄神話≠ニラベルが貼られたワインを受け取った。一番好きなワインだ。 「いつか、君と一緒に、甘くて、少しばかり酸っぱいワインを楽しみたい」 プリンターで印字されたカードが添えられていた。 彼の誕生日には、何を贈ろうか――梨果はワイングラスを手に、窓を洗う土砂降りの雨を見つめた。明日は、梅雨明けかもしれない。 |
◇作品を読んで
工夫を凝らした作品である。梅雨で始まり、それで終わる。島根ワイナリーのワインを小道具にして地域性を持たせ、アヴェロンというハンドルを持つ彼に、自分は野生児だと言わせている。アヴェロンの野生児とは、一七九七年に南フランスのアヴェロンで発見され、狼に育てられたのではないかと推定される少年である。 ストーリーは簡潔で、インターネットを通じて知り合った男と女が、多分、いつかは出会うだろうという予測を読み手に持たせて終わる。 ブームを巻き起こしている携帯(メール)小説と呼ばれる分野は、新しい文学か、一過性のものか。この作品がそれだと言うわけではないが、こういう段階を経て「作家としての創作力」に接近していくことも、一つの道ではないかと思う。 |